音羽村(読み)おとわむら

日本歴史地名大系 「音羽村」の解説

音羽村
おとわむら

[現在地名]山科区音羽〈伊勢宿いせじゆく町・稲芝いなしば乙出おつで町・草田くさだ町・さわ町・山等地さんとうじ千本せんぼん町・珍事ちんじ町・中芝なかしば町・西林にしばやし野田のだ町・はちつぼ初田はつだ町・平林ひらばやし町・前田まえだ町・前出まえで町・森廻もりまわり町・役出やくで町〉

北は竹鼻たけはな四宮しのみや、東は奈良街道で小山こやまと、南は音羽川で大塚おおつか東野ひがしのと、西は四ノ宮川が境となって竹鼻の各村と接する。現音羽平林町は二ヵ所に分れた飛地である。土地は平坦でほとんどが耕地。音羽山麓に位置し、村の南を音羽川が流れる。

平安時代には音羽庄が立荘されていた。中世以後、音羽山の法厳ほうごん寺が観音信仰の隆盛によって栄え、寺は小山村にあるが音羽の地も山麓「音羽の里」として知られたようである。


音羽村
おとわむら

[現在地名]高島町音羽

大溝おおみぞ城下・永田ながた村の西にあり、南西にだけ山を負う。音羽庄の遺称地。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)に音羽とあり、高三九四石余。寛永石高帳では高四一四石余、大溝藩領。慶安高辻帳では田方三〇六石余・畑方一五石余・永荒九二石余。宝永七年(一七一〇)に始まった打下うちおろし村・鵜川うかわ村と北小松きたこまつ(現滋賀郡志賀町)との山境紛争では、当村も鵜川山への入会権を主張している(音羽区有文書)。その主張によれば、鵜川村の百姓は打下村に居住しているので、近在では鵜川村とよばずに打下村と称しているのだから、当村の打下山への入会権には鵜川山も含むというものであった。


音羽村
おとわむら

[現在地名]菰野町音羽

竹谷たけたに川の上流北側に位置し、東方におか村、西方には千草ちくさ村がある。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳には久松吉兵衛・大田助兵衛が音羽郷で、それぞれ二七〇貫・一三四貫を当知行している。江戸時代は初め幕府領、享保九年(一七二四)以降郡山(現大和郡山市)藩領、享和二年(一八〇二)以降長島藩領、文政一三年(一八三〇)以降武蔵おし(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)以降幕府領、安政元年(一八五四)再び忍藩領と変遷。

延宝元年(一六七三)には音羽・千草・閏田うるだ三村と薦野こもの三郷の間で、鳥井戸とりいど川の南一帯の江野えのをめぐって野論が起こった。


音羽村
おとわむら

[現在地名]日野町音羽

仁本木にほんぎ村の東、はなが岳(五〇八・六メートル、宝殿が岳ともいう)北麓に位置し、集落の南を日野川が西流。乙和とも記した(元和二年「古過去帳」浄厳院蔵など)。古墳時代後期の円墳、音羽東古墳・同西古墳があり、地内の小字に御骨みこつなどがあることから、蒲生郡内に比定される「来田綿の蚊屋野」(「日本書紀」雄略天皇即位前紀)で弟大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に殺された履中天皇の第一皇子、市辺押磐皇子の陵墓の所在を当地に比定する説がある(輿地志略)


音羽村
おとわむら

[現在地名]阿山町音羽

丸柱まるばしら村の南、三田みた郷に属する。治承四年(一一八〇)五月一一日付皇嘉門院惣処分状(九条家文書)によれば「をとは」とみえる。道路は波敷野はじきの村から西進して、当村の西部で丸柱村と比曾河内ひそがち(現上野市諏訪)に分れる。元禄一〇年(一六九七)新検を改めている。本高三四一・一六石、平高五四九・二八石、寛延(一七四八―五一)頃の戸数六五、人口二七五、馬一〇。


音羽村
おとわむら

[現在地名]木之本町音羽

河合かわい村の枝郷。同村の北東部にあり、東部山地に発し西辺を南流する杉野すぎの川に合流する音羽谷(乙羽谷)の下流域さとうちにある山村。天保八年郷帳に河合村の内として「音羽村」とみえるが、高付はされていない。口碑によれば鎌倉武士が当地に逃れ来て開拓、八幡神社をふうしょう谷(放生谷か)に祀ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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