額田村(読み)ぬかたむら

日本歴史地名大系 「額田村」の解説

額田村
ぬかたむら

[現在地名]東大阪市額田町・立花たちばな町・南荘なんそう町・東山ひがしやま町・山手やまて町・東豊浦ひがしとようら町・西石切にしいしきり町一丁目・弥生やよい町・たから

生駒山の西麓、長尾ながお谷をはじめとする谷川の扇状地上に位置する。北は植付うえつけ村・神並こうなみ村、西は恩智おんぢ川の対岸に水走みずはい村があり、集落の西を東高野街道が南北に通る。古代河内郡額田郷(和名抄)の地。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高七八一石余、幕府領、小物成として山年貢銀一〇五匁六分。元禄一四年(一七〇一)一八九石余が京都代官小堀仁右衛門領となり、幕末まで同氏領。残りの八四九石余は宝永二年(一七〇五)より上野沼田藩領、享保一四年(一七二九)から幕府領、宝暦一三年(一七六三)より三河岡崎藩領、明和六年(一七六九)に幕府領となる(安永六年「村明細帳」額田家文書)。幕府領のうち三三二石余が慶応元年(一八六五)より京都守護職領(役知)となる(同四年「村鑑帳」同文書)。慶応四年の村鑑帳によると、延宝検地の本高七二三石余、竿先の出目高三〇七石余、古検になき出高四石余で計一千三五石余。

額田村
ぬかだむら

[現在地名]那珂町額田北郷ぬかだきたごう額田南郷ぬかだみなみごう額田東郷ぬかだひがしごう

久慈川の右岸に位置し、西は南酒出みなみさかいで村・北酒出村・門部かどべ村。村の中央を棚倉たなぐら街道が縦貫し宿場であった。集落の北側台地に先土器遺跡、縄文遺跡数ヵ所、弥生遺跡、古墳がある。「常陸紀行」は額田を「古事記」にみえる天津彦根命や、命を祖とする茨城国造などに関係づけている。「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)一一月八日条には没収された佐竹秀義の所領のなかに「糟田」とみえ、弘安大田文には「額田八十一丁半」とある。また尭雅僧正関東下向記録(三宝院文書)の元亀二年(一五七一)に「九月廿六日常州額田八幡別当印可、自廿二日廿八日逗留云々、十月四日於額田大音院但印可事不見」と記され、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「額田村」とみえる。

額田村
ぬかたむら

[現在地名]夜久野町字額田

東流するまき川北岸の但馬街道沿いに発達した街村状の集落。東は井田いだ村、西は日置へき村。高五五三・五二五石(丹波志)

宿場町市場町として開け、八月一〇日と一二月二五日にいわゆる額田市が開かれたといい、上夜久野の山中などから特産のむしろなどを売りに来たと伝える。

享保九年(一七二四)新田開発が行われ、「丹波志」に「享保九甲辰年今開闢於向島圃地為田、租ノ古来幾回雖志不果、可謂当邑古今第一之大功、水節ヲ付田地ト云」と記され、庄屋水谷与三左衛門ほか二〇名が尽力したとする。

額田村
ぬかたむら

[現在地名]尼崎市額田町・高田町たかたちよう神崎町かんざきちよう善法寺町ぜんぽうじちよう弥生やよい丘町おかちよう

高田村の北に位置し、大坂道が南の神崎村に向かう。文禄三年(一五九四)九月日の額田村検地帳写(田中家文書)によれば検地高一四七石余。名請人七四、うち入作四三は高田一一・神崎七・うち九・善法寺二・くらはし六、庄本しようもと(現大阪府豊中市)二、南町三・町ノ二・三間かいち一、田数七町二反余・畠数三町五反余、居屋敷一反余。高請百姓七四人のうち入作百姓四三人で、持高は五二石余と村高の約三五・三パーセントを占めている(兵庫県史)。正保郷帳でも同高。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳によると高一一二石余が旗本柘植正俊領、高三四石余が幕府領(建部与十郎預地)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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