神崎村(読み)こうざきむら

日本歴史地名大系 「神崎村」の解説

神崎村
こうざきむら

[現在地名]神崎町神崎本宿こうざきほんじゆく神崎神宿こうざきしんじゆく

現神崎町の北部、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。北は同川を挟んで常陸国稲敷いなしき橋向はしむこう(現茨城県東村)。白鳳時代の創建と伝える神崎神社が鎮座する地で、また中世の神崎庄の遺称地。また中世以来の神崎津・神崎関は江戸時代にも河岸場としてその役割を果した。また人馬継立を負担、天保(一八三〇―四四)頃に神崎本宿・神崎神宿に分村した。天正一九年(一五九一)一一月日の徳川家康朱印状(神崎神社文書)に香取郡神崎郷とみえ、郷内二〇石が神崎神社に寄進された。慶長四年(一五九九)矢作領四万石を領する鳥居元忠の検地を受け、当村は高七八二石余が打出されている(「部冊帳」伊能家文書)

神崎村
こうざきむら

[現在地名]佐賀関町神崎

大平おおひら村の西、樅木もみのき山地の北側にあって別府湾に臨み、西はほそ(現大分市)の枝村馬場ばば村、南は木佐上きさがみ村。本村の神崎集落のほか河内かわち集落がある。主集落は台地上に形成され、台地の西端を小猫こねこ川、東をみなと川・落水おちみず川などの小河川が北流する。築山つきやま古墳・なかはる古墳・猫塚ねこづか古墳など十数基の古墳があり、西部低地には古代の条里遺構が残る。文化年間(一八〇四―一八)に作成されたと思われる神崎村絵図(小野家蔵)によれば、伊予街道が集落の中心部をほぼ東西に貫いて走る。

神崎村
こうざきむら

[現在地名]金田町神崎

北流する中元寺ちゆうがんじ川にたぎり川が合流する堆積地と日王ひのお山系の東側に位置し、東は金田村。中世からみえる地名で、条里遺構がある。元亨元年(一三二一)四月一五日の北条時直書下(二階堂氏正統家譜/鎌倉遺文三六)弁城べんじよう(現方城町)草場くさば・「(石)松」(現赤池町)とともに「神崎」がみえ、これらの地は前年は請所だったので問題がなかったが、当年の所務は宇佐宮造営料米を除いて決済を遂げるよう、時直が「金田庄直人等中」に命じている。建武元年(一三三四)一一月二六日には筑後の三池道智の旧領である「神崎村」が一七に分割され、勲功の賞として肥前の福田理慶(兼信)らに宛行われた(「後醍醐天皇綸旨写」福田文書/南北朝遺文(九州編)七など)

神崎村
かんざきむら

[現在地名]尼崎市神崎町・額田町ぬかたちよう高田町たかたちよう善法寺町ぜんぽうじちよう

次屋つぎや村の東に位置し、南は猪名いな川と神崎川の合流点、川向うは大坂道の神崎渡で西成にしなり加島かしま(現大阪市淀川区)に通じる。古代より水陸交通の要衝として発達した。慶長国絵図に村名がみえ高三五五石余、正保郷帳では高三六一石余、ほかに新田高七石余。領主の変遷は西川にしかわ村に同じ。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によると家数八一・人数四五四、天明八年(一七八八)には家数一三〇・人数五四五、高札二、渡船二、牛一三・馬八。

神崎村
こうざきむら

[現在地名]大飯町神崎

広岡ひろおか村の南に佐分利さぶり川を隔てて位置し、北を除く三方は山で囲まれ、その中央を佐分利川の支流神崎川が流れる。「若狭郡県志」に「神崎村属佐分利郷、去小浜四里半許也」とある。「若狭国志」に「河崎嶽在河崎村佐分利郷第一高山」とあり、「河崎」とも記している。

「若狭国守護職次第」は建武三年(一三三六)七月二五日のこととして「尾張式部大夫殿小浜へ入部、彼時脇袋又三宅和久利多田又河崎等焼払之了」と記す。足利尊氏が足利時家を若狭守護として入部させたことにより、河崎をはじめ遠敷おにゆう脇袋わきぶくろ三宅みやけ(現上中町)和久里わくり多田ただ(現小浜市)各村が焼かれた。

神崎村
かんざきむら

[現在地名]美山町神崎

神崎川の上流部、谷に沿って集落が散在し、大部分は山地で、東は円原えんばら村、南は葛原くずはら村。北から仲越なかごし洞・井往戸いおど洞の枝郷があり、その南に神崎村本郷、南東の日原ひばら片狩かたかり村を隔ててその東に小倉おぐら洞の枝郷を有する。慶長郷帳に高二九石余とある。正保郷帳では高三〇石余で、すべて畑方、ほかに山年貢米七石、紙舟役銀二〇匁一分。江戸時代を通じて幕府領。

神崎村
かんざきむら

[現在地名]舞鶴市字東神崎ひがしかんざき・字西神崎

由良川河口の右岸、北は若狭湾に面する。集落は東西約二キロにわたる松林の内側の砂浜に沿ってある。集落北東の岬をかなさきといい、「丹哥府志」に

<資料は省略されています>

と記す。

慶長検地郷村帳に高一二九・八五石「神崎村」とあり、土目録でも高は変化せず、すべて畑方であった。同書にみえる運上のなかに、塩浜運上銀一貫三五九匁六分、入木の代りとして塩七五俵五升六合・青梅五升があり、漁村としての特色がうかがえる。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数一三七。畑地がほとんどで桑・南京豆・薩摩芋を栽培した。古来製塩業・海運業に従事する者が多く、とくに西神崎は製塩業が盛んであった。

神崎村
かんざきむら

[現在地名]岡山市神崎町

邑久郷おくのごう村の西、千町せんちよう平野南部の丘陵南西端麓にあり、牛窓うしまど往来が通り、貞享元年(一六八四)幸島こうじま新田ができるまで南は海岸に面した村であった。神崎庄の遺称地。正嘉元年(一二五七)の吉井村畠目録案(東寺百合文書)によると同村の畠が神崎村などに散在していた。元和―寛永期(一六一五―四四)の邑久郡物成秤帳によれば、元和七年の物成高一八二石余。寛永備前国絵図では高二五八石余。「備陽記」によると田畑八三町七反余、家数一九一・人数一千二一〇、池三、小猟船より七端帆までの船一六。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千一五二石余、蔵入。田高八八九石余・五八町一反余、畑高一六二石余・二四町九反余、家数二二七・人数一千五三、牛九五、社方一軒。

神崎村
こうざきむら

[現在地名]鷹島町神崎免こうざきめん

鷹島村の東部に位置し、神崎半島を占める。みなみヶ崎や干上ほしあげ鼻より伊野利いのり浜にかけては入江や砂浜がみられるが、伊野利浜は弘安の役で日本側の援軍が着岸した地とされ、祈りの浜ともいわれる。モンゴル襲来を大宰府に報じて転戦、鷹島で戦死した兵衛次郎の墓も当地にあり、石堂いしどう様として崇敬されている。江戸時代は鷹島村のうちで、正保国絵図に「神崎村」とあり、高一六九石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では鷹島村内に神崎免とみえる。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では鷹島村の枝村として村名がみえ、高一六九石余でカウサキの訓を付す。

神崎村
かんざきむら

[現在地名]礼文郡礼文町大字船泊村ふなどまりむら

明治一一年(一八七八)一〇月に成立し、同三五年まで存続した礼文郡の村。礼文島の北岸の大部分と西岸を占め、東は船泊村。明治二五年一〇月、船泊外一ヶ村戸長役場の管轄下となる。明治二一年の戸口は四〇戸・一三〇人(道戸口表)。同三四年の戸口は二六七戸・一千三九〇人(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)。明治一九年船泊・神崎両村漁業組合が結成された。同二六年住宅の一部が教室にあてられて始まった教育は翌二七年八月船泊尋常小学校分教場となり、同三四年一月神崎尋常小学校として認可された(礼文町史)

神崎村
かんざきむら

[現在地名]久美浜町字神崎

かぶと(熊野権現山)の北、久美浜湾東岸の海に突き出した部分に集落をつくる。東から南にかけて古砂丘の海岸段丘に火山灰層が重なってできた畑地が広がり、これに沿って東の浦明うらけ村に続く。小字つかガナルに横穴式石室が残る。

中世末の丹後国御檀家帳に「かんさきの里 家百廿斗」とみえ、慶長検地郷村帳には「鹿野庄之内神崎村」と記される。延宝三年郷村帳には鹿野かの庄に続けて「同神崎分」高二四〇・五二石とみえるが、延宝九年(一六八一)には二三〇石余に減少した(天和元年宮津領村高帳)

神崎村
かんざきむら

[現在地名]市原市神崎

潤井戸うるいど村の西にある。治承四年(一一八〇)源頼朝が市原八幡宮(現飯香岡八幡宮)に寄進した神田のなかに市原庄神崎村五町が含まれていたという(元禄一〇年「飯香岡八幡宮由緒本記」飯香岡八幡宮蔵)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六九石。元禄郷帳では高一二二石余で、幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二五で、旗本鈴木領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報