松原庄(読み)まつばらのしよう

日本歴史地名大系 「松原庄」の解説

松原庄
まつばらのしよう

八家やか川の河口右岸、現白浜しらはま町の松原八幡神社を中心とした一帯に比定される。山城石清水いわしみず八幡宮領で、庄内鎮守の松原別宮(松原八幡宮、現在の松原八幡神社)が勧請されていた。長保二年(一〇〇〇)七月三日付の極楽寺別当等与判状案(「宮寺縁事抄」石清水文書)に「松原庄」とみえ、石清水八幡宮の宿院極楽寺領であった。治安三年(一〇二三)一〇月五日、極楽寺兼清は当庄などを極楽寺創建者安宗の門流のうち定清門胤に継承することを求め、これを朝廷から認められている(「極楽寺陳状案」同文書)。元暦二年(一一八五)一月九日、源頼朝は当庄など八幡宮寺領への武士乱暴を停止させている(「源頼朝下文案」同文書)。寛喜三年(一二三一)四月二二日の石清水八幡宮寺供米支配状(榊葉集)によれば、当庄の庄枡による四石八斗二升が宮寺の二月神楽の供米に充てられていた。寛喜四年一月二日と建治二年(一二七六)一〇月一九日には当庄年貢三〇〇石が極楽寺に納められている(ともに「極楽寺所当米検納状」同文書)

鎌倉末期の当庄公文は松原別宮検校の任耀であったが、元弘(一三三一―三四)初年に公文任耀跡を後藤筑後入道が押領している(文和二年八月一〇日「秦助吉等連署契約状」井尻家文書など)


松原庄
まつばらのしよう

山城広隆寺領の庄園。近世の松原村域が庄域にあたる。広隆寺こうりゆうじ庄とも称された。立庄の時期は不明であるが、広隆寺の末寺並別院記(広隆寺文書)によれば、松原庄は「水田八十余町官省符地也、本無品内親王家領也」で、鳥羽殿建立の時、鳥羽上皇の御願によって長日薬師供料所として広隆寺領であった「鳥羽」の代りに寄進されたという(無品内親王がだれかは未詳)。しかし、鳥羽殿を建立したのは白河上皇であるから、明応八年(一四九九)成立の「広隆寺来由記」に、鳥羽法皇が保安年間(一一二〇―二四)広隆寺に参詣し、薬師如来を礼拝して霊験あらたかなのを感じて、松原庄を永代薬師如来供料として寄進したとあるのが自然かもしれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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