馬見塚村(読み)まみづかむら

日本歴史地名大系 「馬見塚村」の解説

馬見塚村
まみづかむら

[現在地名]伊勢崎市馬見塚町・保泉町ほずみちよう

北は佐位さい茂呂もろ村、東は同郡保泉村(現佐波郡境町)、西は大正寺だいしようじ村・下道寺げどうじ村。古くに馬市が立ったと伝え、村名の由来という(伊勢崎風土記)日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三五六石余・畑方六三二石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑(上岡文書)によれば反別七五町四反余、うち田方一九町八反余・畑方五五町四反余。


馬見塚村
まみづかむら

[現在地名]南河原村馬見塚

犬塚いぬづか村の南に位置し、東は斎条さいじよう和田わだ下池守しもいけもり三村(現行田市)。古墳後期の集落跡があり、条里制に由来する町地名が残っていた(風土記稿)。東部の御堂塚付近に馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたという伝説があり、純農村地域であるが地方的な流通市場が形成されていたとも推測される。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る馬見塚三河(永二一貫文)は当地出身という(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高六八九石余。


馬見塚村
うまみづかむら

[現在地名]富士宮市馬見塚

外神とがみ村の北西北山きたやま村の南西に位置する。西部潤井うるい川、東端を同川支流の足取沢あしとりざわ川がともに南流する。馬見墓とも記す。「高白斎記」の天文一四年(一五四五)九月一六日条に「馬見墓御陣所」とみえ、この年今川氏と北条氏との間に起きた第二次河東一乱に際し、今川氏と同盟関係を結んでいた武田信玄援軍を率いて、この日馬見墓に布陣している。その後当地を含む富士上方ふじかみかた一帯は武田氏の支配するところとなり、元亀三年(一五七二)五月五日、武田氏は渡井惣兵衛尉に「大豆塚棚口之内由井惣右衛門尉分拾七貫文」ほかを与えている(「武田家朱印状」市川文書)


馬見塚村
まみづかむら

[現在地名]豊橋市馬見塚町

とよ川左岸の河口付近にあたる。近世は吉田方五ヵ村の一。「今橋物語」(正太寺蔵)所載の永正二年(一五〇五)一一月の今川氏親が渡部平内次に宛てた感状に「其方馬見塚為替地、於渥美郡三相村、本銭百廿貫文永令宛行之畢、於当家、於令忠節、益可加扶所候」とあり、地侍渡部平内次が馬見塚の替地としてあいを与えられている。この馬見塚の地は、同年牧野古白が今橋いまはし城を築城当時の消息を伝える「宮島伝記」に「牧野左衛門成時牛久保組与力引連今橋に来り馬見塚ノ岡ヲ検分シテ入道淵ト云所岸高ク境内広宜城地ト定縄張始殊平内治ノ領地之汐先キモサシ入ル所ナレバ云々」とあるように、今橋城の城地内にあったもののようである。


馬見塚村
まみづかむら

[現在地名]一宮市馬見塚

小赤見こあかみ村の南に尾張連馬身という人の塚があり、その由縁により馬見塚村という(尾張志)。村高二四二石九斗余のうち二〇九石余は藩士五人の給知、残る三五石余が蔵入地。田畑も見取新田を加えても田六町一反余・畑一三町一反歩の小農村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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