馬込村(読み)まごめむら

日本歴史地名大系 「馬込村」の解説

馬込村
まごめむら

[現在地名]大田区南馬込みなみまごめ一―六丁目・中央ちゆうおう四―五丁目・東馬込ひがしまごめ一―二丁目・中馬込なかまごめ一―三丁目・北馬込きたまごめ一―二丁目・西馬込にしまごめ一―二丁目・上池台かみいけだい一丁目・同四丁目・南千束みなみせんぞく一―三丁目・北千束きたせんぞく一―三丁目・山王さんのう一―二丁目・同四丁目・石川町いしかわちよう一―二丁目

区域の北東部に位置し、東は新井宿あらいじゆく村など、南は桐ヶ谷きりがや村・池上いけがみ(下池上村)など、西は池上村(上池上村)など、北は大井おおい村・上蛇窪かみへびくぼ村・中延なかのぶ(現品川区)などに囲まれ、地上道が通る。古くは駒込と唱えたともいわれるが(風土記稿)、史料の上では確認できない。かつて村内に天沼あまぬまの小字名があり、「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月乙巳条にみえる「乗潴駅」を同地一帯に比定する説がある。北条氏所領役帳によれば、江戸衆の梶原助五郎が「江戸 馬込」に役高三二貫六〇文の所領を有していた。天正一六年(一五八八)一月七日、豊臣秀吉軍が侵攻してくるとの情報を受けた北条氏は、領国境の守備を固めるため「馬込百姓中」に対し、鍬・簣を持った人足二人を一〇日までに準備し、一一日には小田原に集まるよう命じている(「北条家朱印状写」武州文書)

村域は二つの台地の谷間に開けて土地の高低がはなはだしく、九十九谷ありと称された。村の北西方に池上・雪ヶ谷ゆきがや碑文谷ひもんやふすま(現目黒区)石川いしかわ・中延など六ヵ村に挟まれた小名千束せんぞく(飛地)があり、古くは千束郷と唱え、村で最初に開かれたところという。


馬込村
まごめむら

[現在地名]浜松市馬込町・木戸町きどちよう

馬込川が中央を南流し、東海道が東西に通る。馬込川には馬込橋が架けられていた。東は向宿むこうじゆく村を挟み天神てんじん町、西は浜松城下しん(下新町)。新町との境に番所があり、修復役は新町と当村が負担した(浜松各町書上)。天正元年(一五七三)一一月一一日の徳川家康判物写(水野文書)馬籠まごめ渡がみえるが、その位置は近世の船越一色ふなこしいつしき村付近であったと考えられる。なお室町時代に当地付近は法印村とも称され、多くの山伏が住んだという。

松平忠頼領郷村帳では馬籠村として高一〇〇石余、田二町五反余・畑七町六反余、うち川成三石余、ほかに道場として二〇石、来光寺領三石・西光寺領二石。


馬込村
まごめむら

[現在地名]岩槻市馬込、蓮田市馬込・桜台さくらだい一―二丁目

平林寺へいりんじ村の西に位置し、北は蓮田村、南は綾瀬川を介してまるさき新田(現大宮市)。集落は同川の自然堤防上に形成されている。かつて荏原えばら郡馬込村(現東京都大田区)のものが来て開発したためこの村名があるという(風土記稿)。永仁二年(一二九四)一一月一一日伊賀光貞は父頼泰から「うるうとの村」や同村に付属する「みくら・まこめ」などを譲られ、元亨二年(一三二二)一〇月二九日幕府より安堵されている(永仁二年一一月一一日「伊賀頼泰譲状案・裏書」飯野八幡宮文書)。この「みくら・まこめ」は当地と推定される。


馬込村
まごめむら

[現在地名]沼津市馬込

志下しげ村の南、鷲頭わしず山の西麓に位置する漁村。西に海(駿河湾)を望み、南は獅子浜ししはま村。国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、以後の領主の変遷は志下村に同じ。寛永改高附帳では田高五石余・畑高二〇石余。延宝四年(一六七六)検地帳(静浦村誌)によると反別は三町二反余(うち田三反余・畑屋敷二町八反余)。安永三年(一七七四)の漁猟船仕訳申上書(植松家文書)によれば、当村所持の漁猟船は五艘で、浜には三つの網戸(漁場)があり、アジを中心にイサキ・小鯛などのよく釣れる漁礁があった。


馬込村
まごめむら

[現在地名]蓮田市馬込・桜台さくらだい二―三丁目、岩槻市馬込

元荒川の右岸、川島かわしま村の西にある。大部分は現岩槻市に所属(岩槻市の→馬込村。延慶四年(一三一一)三月八日の紀年銘を有する巨大な板石塔婆(地上高四メートル、上幅六五センチ・下幅八〇センチ)があり、県の文化財に指定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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