駒籠村(読み)こまごめむら

日本歴史地名大系 「駒籠村」の解説

駒籠村
こまごめむら

[現在地名]大石田町駒籠

鷹巣たかのす村の西、最上川右岸に位置し、最上川と野尻のじり川の氾濫原に耕地と集落が開けている。地内には縄文時代前期と弥生時代後期の駒籠北遺跡、戦国時代の駒籠館跡がある。また古代東山道の野後のしり駅の比定地でもある。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条によれば、同駅には駅馬一〇疋・伝馬三疋・船五隻が置かれた。出羽国にのみ置いた水駅の一つで、村山駅と避翼さるはね駅の間に位置する。野後駅はこれまで現大石田や丹生にゆう川が最上川と合流する豊田とよだ付近、あるいは尾花沢おばなざわ荻袋おぎのふくろからいわふくろにかけての丹生川に沿った渡渉点、駒籠などに比定されてきたが、近年は当地に比定する説が有力となっている。駒籠の地名は駅馬・伝馬の配備や厩舎に由来すると考えられる。駒籠館は集落の南東部、最上川と野尻川が合流する地形を利用して立地。字土井どいまえ地内と字土井どいうらの一部にかかり、標高約六六メートル、西側の水田との比高は約一〇メートル。東西約二六〇メートル・南北約一六〇メートルの大規模な平台城で、南東隅に「楯の鼻」(出丸)がある。北側と西側を空堀と土塁で断ち、南東隅の楯の鼻は深い空堀で画している。


駒籠村
こまごめむら

[現在地名]青森市駒込こまごめ

浜館はまだて村の南、幸畑こうばた村の東北にある。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「駒籠」とある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高二四二・二七石とある。貞享四年(一六八七)検地帳には、田方三四町三反五歩、畑方三五町四反八畝一三歩、田畑屋敷合せて六九町七反八畝一八歩、村高三三〇・五四六石とあり、下田下々田および下畑・下々畑が多いが、田地畑地の面積が拮抗している。屋敷地七反九畝九歩のうち九歩は郷蔵屋敷である。雑木が生えている鷹待場五町二反八畝一ヵ所が留林として、草山として一一ヵ所四七町四反五畝二八歩が記され、八甲田はつこうだ山麓を村域にもつ村の特徴を示している。


駒籠村
こまごめむら

[現在地名]三和町駒込こまごめ

長井戸ながいど(現在は水田)上流東岸に所在し、南北に狭小な台地が続く。西は上片田かみかたた村。後円山こうえんやま古墳群は字塚の下つかのしたにあり、前方後円墳が二基存在。南墳は南北二〇メートル・東西四〇メートル・高さ六メートルで、土師器片と匂玉が出土。北墳からは土師器・円筒埴輪片・直刀が出土。字上原かみはらにも古墳時代の遺物散布地がある。天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)に「幸嶋郷之内」として「十五貫文 こまこめ」とあり、山川やまかわ(現結城市)城主山川晴重の領地であったが、山川氏は慶長六年(一六〇一)越前へ転封。江戸時代は古河藩領として明治に至り、「寛文朱印留」には「駒込村」とある。


駒籠村
こまごみむら

[現在地名]下田村駒込こまごみ

長沢ながさわ村から杉沢すぎさわ(現見附市)へ抜ける山道に沿う。正保国絵図駒込村とあり、高三〇〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では「長沢村・駒込村」として、四八三石四斗余・家六三戸。長沢組に属した。寛文年間(一六六一―七三)の検地帳(山井正氏蔵)は田方のみが残り、計二三町一反余で名請人四二人。


駒籠村
こまごめむら

[現在地名]東和町駒籠

中内なかない村の南東に位置し、北上高地西辺の山間に立地。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、蔵入高二〇石余、七ヵ年平均の免は四ツ六分七厘。元禄十郡郷帳では中内村に入るとある。江戸時代を通して盛岡藩領内では独立村扱いだが、公的には中内村に含まれており、天保郷帳にも村名がみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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