骨皮道賢(読み)ほねかわどうけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「骨皮道賢」の意味・わかりやすい解説

骨皮道賢
ほねかわどうけん
(?―1468)

応仁(おうにん)の乱(1467~77)に京都で活動した足軽の大将で、室町幕府侍所所司代(さむらいどころしょしだい)の多賀高忠(たがたかただ)配下目付。苗字(みょうじ)は、標記のほかに「骨河」とも記され、名は「道源」「道元」「道見」とも記される。また「骨河道賢入道(にゅうどう)」「骨皮左衛門(さえもん)道源」という呼称もみえる。目付の職にあったことから、盗賊・悪党らの動勢に明るく、彼らを組織し指揮する才覚と実力とを買われて、応仁の乱では東軍細川勝元(かつもと)の下で活躍し、1468年(応仁2)3月、京都の下京(しもぎょう)の焼打ち作戦のために300余の手勢を率いて稲荷(いなり)山に陣取ったが、西軍に攻めたてられて敗れ、女装して板輿(いたよ)で脱走しようとしたところを、西軍の山名宗全(そうぜん)の配下に追討されて死んだ。

[横井 清]

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朝日日本歴史人物事典 「骨皮道賢」の解説

骨皮道賢

没年:応仁2.3.21(1468.4.13)
生年:生年不詳
室町幕府管領細川勝元の足軽大将。応仁の乱最中の応仁2(1468)年3月15日,配下の足軽らを伏見稲荷山に集めて山名軍の糧道を断ち,下京に火を放ったのが史料上の初見である。そして,同月21日には畠山義就,山名持豊(宗全),斯波義廉,大内政弘らの総攻撃を受け討死してしまう。この合戦については『碧山日録』『山科家礼記』『重胤記』『経覚私要鈔』などに詳しい。『山科家礼記』『重胤記』は道賢を勝元の目付と記し,『経覚私要鈔』には骨皮道賢入道とある。後世の書『応仁別記』によると,道賢はもと所司代多賀高忠の配下にあったが,京中および南山城に多く手の者を持っていたので,勝元が呉服太刀を与えて動員したという。戦に敗れ,女装して脱出しようとしたところを山名方に討ちとられたという。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「骨皮道賢」の解説

骨皮道賢 ほねかわ-どうけん

?-1468 室町時代武士
室町幕府侍所所司代の多賀高忠(たかただ)配下の目付とも,細川勝元(かつもと)の目付ともいわれる。応仁(おうにん)の乱では東軍の勝元のもとで活躍したが,山名持豊(もちとよ)ら西軍に攻められ応仁2年3月21日討ち死に。姓は骨河とも,名は道源,道元,道見ともかく。

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