日本大百科全書(ニッポニカ) 「骨皮道賢」の意味・わかりやすい解説
骨皮道賢
ほねかわどうけん
(?―1468)
応仁(おうにん)の乱(1467~77)に京都で活動した足軽の大将で、室町幕府侍所所司代(さむらいどころしょしだい)の多賀高忠(たがたかただ)配下の目付。苗字(みょうじ)は、標記のほかに「骨河」とも記され、名は「道源」「道元」「道見」とも記される。また「骨河道賢入道(にゅうどう)」「骨皮左衛門(さえもん)道源」という呼称もみえる。目付の職にあったことから、盗賊・悪党らの動勢に明るく、彼らを組織し指揮する才覚と実力とを買われて、応仁の乱では東軍の細川勝元(かつもと)の下で活躍し、1468年(応仁2)3月、京都の下京(しもぎょう)の焼打ち作戦のために300余の手勢を率いて稲荷(いなり)山に陣取ったが、西軍に攻めたてられて敗れ、女装して板輿(いたよ)で脱走しようとしたところを、西軍の山名宗全(そうぜん)の配下に追討されて死んだ。
[横井 清]