高家村(読み)たけいむら

日本歴史地名大系 「高家村」の解説

高家村
たけいむら

[現在地名]宇佐市上高家かみだけい下高家しもだけい東高家ひがしだけい西高家にしだけい

尾永井おながい村の西、伊呂波いろは川最下流東岸に位置し、同川を挟み西はしよう村、南は時枝ときえだ村・たか村。高家郷の遺称地。近世の領主の変遷四日市よつかいち村に同じ。天正一五年(一五八七)八月の検地帳(中島家文書)が残る。黒田氏の豊前入国直後の差出検地と思われ、形式は元重もとしげ村のものと同一で、耕地字名・面積・斗代・名請人が一行に書かれている。名請人は必ずしも当村居住の者だけではなく近隣の村人も含まれている。同検地帳によれば高五八九石余、反別は八三町、名請人のうち一二人が一町歩以上の耕地を所持していた。

高家村
こうかむら

[現在地名]八代町高家

西は南・北の八代村に境を交え、北西は川を挟み八千蔵やちくら(現御坂町)。北八代村から若彦わかひこ路が通じる。枝村に小山こやま町がある(甲斐国志)。建武四年(一三三七)六月一三日の源持・平泰宗連署寄進状(大善寺文書)に「小岡郷」とみえ、郷内のもと上野小七郎の所領が大善だいぜん(現勝沼町)に寄進されている。同郷は当地と推定される。翌七月一六日には南北朝の戦乱で焼打ちに遭った同寺に対し、改めて鎌倉府執事斯波家長が将軍家祈祷料として郷内と塚原つかはらの六町余の田畠を寄進し(「斯波家長寄進状」同文書)、暦応二年(一三三九)四月一九日幕府はこれを安堵している(「室町幕府御教書」同文書)

高家村
こうけむら

[現在地名]軽米町高家

瀬月内せつきない川に郷坂ごうさか川が合流して形成された沖積地に臨んで集落が形成され、周囲は丘陵地帯。八戸街道が通り、西は晴山はれやま村。小桶村とも記す。天正一九年(一五九一)と推定される南部信直書状(福岡川嶋文書)によると、南部信直は野田氏と久慈氏が協力して晴山・高家に出陣するよう要請している。瀬月内川と郷坂川の合流点南西にある高家館跡は、同年の九戸政実の乱に加わって滅んだ高家将監の館と伝える(九戸軍談記)

高家村
たいえむら

[現在地名]桜井市大字高家

よね川上流の標高約三〇〇メートルの山村。「万葉集」巻九に

<資料は省略されています>

とある「高屋」を「大和志」は当村とする。

慶長四年(一五九九)「たいゑ村」のうち二〇〇石が落合藤右衛門、三〇〇石が一柳茂左衛門に宛行われたことが次の毛利家文書で判明する。

<資料は省略されています>

関ヶ原戦後の慶長郷帳では「田永村」とみえ村高五五八・一九石。うち三〇〇石は一柳茂左衛門領、二五八・一九石は五条二見藩(松倉重政)領の相給村。元和郷帳では旧一柳氏領は疋田右近領となり、五条二見藩領は松倉氏の国替で幕府領(代官宗岡弥右衛門)となっており、村名も「高家村」とみえる。元和五年(一六一九)疋田右近領は津藩(藤堂高虎)領となり、幕府領は郡山藩(松平忠明)領となり、依然相給村であった。

高家村
たいえむら

[現在地名]日高町高家

西にし川が原谷はらだにより平野部に流れ出る辺りの右岸に広がる。北は池田いけだ村、東は萩原はぎわら村。高家の名は「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月一九日条に「大家庄」とみえ、以後、中世を通じて高家庄に含まれた。

慶長検地高目録によれば村高一千一七三石余で小物成四・〇九三石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑八七町九反余、家数一二〇で内訳は本役五九・半役三一・無役二〇・庄屋一・年寄八・ありき一、人数六〇五、牛五九、馬一七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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