高寺村(読み)たかでらむら

日本歴史地名大系 「高寺村」の解説

高寺村
たかでらむら

[現在地名]江刺市愛宕おだき

片岡かたおか村の西、田谷たや村の北に位置し、北上川東岸平地に立地。中央部を広瀬ひろせ川が南西流し、南端で北上川に合流する。両川の自然堤防の微高地上に集落が営まれたが、洪水の常襲地帯であった。弥生時代の集落遺跡ぬまうえ遺跡は、岩手県の弥生時代研究の標式遺跡である。奈良時代後半と平安時代初期の集落跡が発見された宮地みやじ遺跡がある。現花巻市佐藤氏所蔵の紙製地蔵菩薩像の胎内納入経断片に「奉納大乗妙典 しとく元年 上さいもくちき行人□ さいの□ 六十六部卯□五月吉日 道山任海 をうしうえさし たかてら□」とあり、至徳元年(一三八四)奥州江刺高寺において納経されている。正法しようぼう(現水沢市)二代月泉良印は応永七年(一四〇〇)に没したが、月泉四十四資の一人に江刺氏の一族高寺殿(良清庵主)がいた(「瑞雲開山月泉禅師嗣資之次第」正法寺文書)。当地支配の土豪であったかもしれない。


高寺村
たかでらむら

[現在地名]羽黒町高寺

猪俣新田いのまたしんでん村の南西に位置し、村の中央を因幡いなば堰が北流する。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高八七石余、正保郷帳では田高四四石余・畑高一五石余、ほかに社領(観音領)五五石余。弍郡詳記では高七一石余、免六ツ一分五厘、家数九、ほかに寺一・山伏一三・社人三。山札年貢米一俵三斗を納め高寺山を採草地とした(正保四年「庄内三郡左沢浮役帳」酒井家文書)。明治初年のまつおか開墾で、当時官林であった地内の大高おおたか森が払下げられた。


高寺村
たかてらむら

[現在地名]三重町本城ほんじよう 高寺

深田ふかた村の南西、本城山(四四〇・一メートル)の北西麓にある。西方を玉田たまだ川が北西へ流れる。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。慶長六年(一六〇一)の中川秀成知行方目録案(中川家文書)に高寺とみえ、奥畑おくばた村・板屋いたや村と合せて高五七七石余。慶長豊後国絵図では高寺村とあり、高三三八石余。正保郷帳では宇田枝うたえだ郷に属し、田方一四五石余・畑方八六石余、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高二八四石余。


高寺村
たかでらむら

[現在地名]富山市水橋高寺みずはしたかでら

白岩しらいわ川東方の平地に位置し、北は専光寺せんこうじ村。村の北東を小出こいで川が流れていた。村名は上市かみいち川の氾濫を逃れて高所に寺を建てたことに由来するという。明治初年には当村と専光寺村の間に相当の高低差があったと伝える(上条小史)。戦国期に小井手こいで(小出保)に含まれていたとみられ、元亀元年(一五七〇)一二月一三日には伊勢神宮に「小出之保高寺村内三俵之所」が寄進されている(「河田長親寄進状」伊勢古文書集)


高寺村
たかてらむら

[現在地名]柿崎町高寺

北は荻谷おぎのたに村、南はやなさき村と接する。柿崎村から黒岩くろいわ村を経て刈羽郡に抜ける黒岩通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外 高寺村」とみえ、縄高一九〇石七斗八升五合、家三軒・一一人とある。正保国絵図に高一四〇石余とある。天和三年郷帳によれぱ高二〇八石六斗余、同所新田四七石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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