高山郷(読み)こうやまごう

日本歴史地名大系 「高山郷」の解説

高山郷
こうやまごう

東流する肝属川南岸に位置し、東は海(志布志湾)に面する。ほぼ現高山町域にあたる。

〔中世〕

高山川中流域、同川支流の木佐貫きさぬき川と本城ほんじよう川とに挟まれて肝付氏の本城高山城(肝付城、高山本城、山之城)が築かれている。肝付氏の祖とされる伴掾大監兼行が永観二年(九八四)より居城としたと伝え(高山名勝志)、また兼行の孫兼貞が長元元年(一〇二八)肝付郡弁済使として入部したともいわれるが、同城が築かれていたことが確認できるのは南北朝期である。観応二年(一三五一)八月七日の畠山直顕感状(禰寝文書)では、高山城などで足利直冬方の直顕にくみして戦った禰寝孫二郎(清成)の軍忠が賞されており、同年八月日の禰寝清成軍忠状(同文書)によれば、高山城は同月三日に攻め落されていた。室町期には肝付氏の本拠は高山城に置かれ、文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)には島津武久(忠昌)代の「国之面々」として肝付兼忠と子息兼連が記され、また肝付分として高山・本城・富山とみやま・野峯・宮下みやげ・柿龍沢の城が記されている。高山は室町期から戦国期を通じて、高山本城および大永四、五年(一五二四、二五)に築城された高山新城を中心とする地域をさす呼称として用いられた。地域内には肝属郡灌頂所の真言宗高崇こうすう寺に加えて嘉慶元年(一三八七)肝付兼氏により志布志大慈しぶしだいじ(現志布志町)末の臨済宗昌林しようりん寺、応永九年(一四〇二)兼氏の菩提のために兼元により曹洞宗瑞光ずいこう寺が創建され、兼連の子兼久より曹洞宗長能ちようのう寺が創建され、肝付氏の菩提寺臨済宗盛光じようこう寺も再興された(以上「三国名勝図会」など)。高山本城は明応三年(一四九四)、永正三年(一五〇六)に守護島津忠昌勢の攻撃を受けたものの肝付兼久は禰寝氏ら国人層との連携や志布志の新納氏の救援によって守護方を退けた(「閑暇吟」旧記雑録、「島津国史」など)。肝付氏は兼久の子兼興、その子兼続(省釣)の代に勢力を著しく拡大し、島津本宗家とも結び付いた。天文八年(一五三九)の紫原合戦味方交名注文(旧記雑録)には、閏六月一七日に島津貴久が島津実久方の市来いちき(現市来町)を攻めた際の軍勢に兼続の名がみえ、同一一年一一月二〇日の酒式次第(同書)では、一所衆として吉利・禰寝・菱刈・伊地知の各氏とともに肝付氏が酒肴を受けるとみえる。兼続は島津忠良の女於南(阿南)を室とし、禰寝氏・伊地知氏や日向伊東氏との婚姻関係を結んで、高山を中心に大隅半島のほぼ全域に影響力を及ぼすこととなった。


高山郷
たかやまごう

和名抄」高山寺本は大前おおさき郷の次に「山高」郷を載せ、東急本は緑野郡の最後に「山高」郷があり、ともに訓を欠く。中世史料には高山御厨・高山党・高山庄などがみえ、いずれも「高山」とある。現藤岡市の高山を遺名とする。高山郷の位置について「日本地理志料」は高山・日野ひの中倉なかくら大平おおひら(現藤岡市)にわたる地とし、「大日本地名辞書」は高山・三本木さんぼぎ金井かない・下日野(現藤岡市)とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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