高岸村(読み)たかぎしむら

日本歴史地名大系 「高岸村」の解説

高岸村
たかぎしむら

[現在地名]双海町高岸

村の南界を東西に標高八九六メートルのうしみねを頂点とする四国山地の支脈が走り、その階段状の北麓に位置する村で、北は直線的な岩石海岸伊予灘に面する。東は上灘かみなだ村、西は大久保おおくぼ村、南は山境で現喜多きた内子うちこ町に接する。浮穴うけな湯並ゆなみ郷一〇村の一で、江戸時代を通じ大洲藩領。元和三年(一六一七)以来の旧領で、大洲藩では郡内ぐんないとよばれた地域に属する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「高岸村 日損所、茅山有」、高五一三石六斗五升五合、うち田三四四石二斗四升八合、畠一六九石四斗七合と記す。寛文七年(一六六七)来国の浦巡察使の「西海巡見志」には、家数五五軒、舟数三艘、うち一艘六〇石、二艘猟舟、加子数四一人とある。

高岸村
たかぎしむら

[現在地名]中町高岸

天田あまだ村の西、杉原すぎはら川中流域西岸に位置する。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方三〇一石余・畑方六石余、幕府領旧高旧領取調帳でも同領。延享三年(一七四六)村明細帳(北藤家文書)によると高二七一石余・反別一七町八反余、ほかに除地(浄福寺)三斗余・永荒川欠石砂入四石余、小物成は野手山手銀六匁・百姓林山手銀二匁余、家数三八・人数一八九。

高岸村
たかぎしむら

[現在地名]佐賀市多布施たふせ三丁目

文化一四年(一八一七)郷村帳によれば多布施東分のなかに小路・大島・高岸・城之元・岸川町裏と記されている。天保郷帳の高岸村がどの範囲を示すかは不明であるが、およそ佐賀城の北西で、十間堀じつけんぼり川の北の多布施川天祐寺てんゆうじ川に囲まれた低湿地と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報