高島村(読み)たかしまむら

日本歴史地名大系 「高島村」の解説

高島村
たかしまむら

[現在地名]鳴門市鳴門町高島

三石みついし村の西にある。東は大毛おおげ島、南西部は小鳴門海峡、北はうちノ海を挟んで島田しまだ島と、四周を海に囲まれる。中央部を南北に高島山が連なり、西端には竹島たけしまという小山がある。集落は高島山南西部微高地が中心である。小鳴門海峡対岸の黒崎くろさき村とを結ぶ渡船と、明神あきのかみ村とを結ぶ渡船(明神渡)がある。初め竹島村と称し、慶安年中(一六四八―五二)高島村と改めたという(阿波志)。寛永八年(一六三一)に当村庄屋孫兵衛が郡奉行に差出した覚書(山田家文書)によれば、孫兵衛の先祖は駿河国の出身で、淡路国などを経て慶長二年(一五九七)孫左衛門のとき阿波の撫養むやに移ってきた。その後当地の干潟を見つけ、岡崎おかざき城の益田内膳の許しを得て配下の者一〇名を淡路から呼寄せて塩浜の築立を始め、同一二年には八町六反余、年貢として銀子七八四匁余の検地を受けるに至った。その功績により孫左衛門は竹島村政所役を仰せ付けられ政所給として塩浜三反を給されたという。一方、「鳴門辺集」では、もとは堂浦どうのうら村の内であったが、慶長年中淡路から孫左衛門と五郎右衛門が百姓二〇人を連れてきて塩浜を築立てた。両人は月番交替で庄屋役を勤めたが、元禄年中(一六八八―一七〇四)から孫左衛門一人に庄屋役が命じられ、天明年中(一七八一―八九)冥加金を上納して永代苗字帯刀御免、御目見得を許される身分となり、名を篠原孫左衛門と改めたとある。


高島村
たかしまむら

[現在地名]小樽市高島一―五丁目・手宮てみや一―三丁目

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三五年(一九〇二)まで存続した村。手宮村の北にあり、北東部に茅柴かやしば岬が張出し、高島湾に弁天べんてん島が浮ぶ。明治二年一二月調の高島郡請負中諸調書上(運上家旧蔵)に字タカシマとみえ、永住漁民八軒・二九人、出稼漁民五軒・一五人、土人一〇軒・三五人、鮭場所一三ヵ所余。同二年の当地の鯡建網は一九統(「小樽高島明細書」小樽市史)


高島村
たかしまむら

[現在地名]田主丸町志塚島しつかしま

巨瀬こせ川下流右岸に位置する。屋敷地は巨瀬川と日田街道(豊後中道)の間にあり、耕地は灰塚はいづか志床しどこ門上かどのうえ怒田ぬた各村と入組む(上三郡絵図)。本高は二五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高七六石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦二石三斗余・小麦一石一斗余・菜種三斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗八升、人数四九、馬八(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高七七石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一町九反余・開田二反余・畑田六反余・畑三町三反余・居屋敷八畝余。


高島村
たかしまむら

[現在地名]北野町金島かねしま

筑後川中流の旧金島放水路の起点付近に位置し、西はかがみ村に接する。大城おおき村の北と東に接する今寺いまでらも当村内。永享五年(一四三三)から寛正五年(一四六四)の間と考えられる八月一七日の城重政書状(五条家文書/史料纂集)によれば、三井郡「河北之内高嶋」四〇町などが菊池氏より五条良邦とみられる人物に給与されている。本高は四二五石余(元禄国絵図)。庄屋の鹿毛甚右衛門は鏡村の庄屋らと床島とこしま堰築造に尽力、倅の与三右衛門とともに金銀仕払預役を務めた(「床島井堰出来発端書留」床島堰渠志料)。「在方諸覚書」では古高三七〇石・役高六五四石。


高島村
たかしまむら

[現在地名]十日町市高島

真田の鉢さなだのはちの東方。北は南鐙坂みなみあぶざか村、南は姿すがた村。東の信濃川には入間いるま川・羽根はね川の二支流が対岸から流れ込み、水害を受けやすい地にある。集落は河岸段丘上に信州道沿いにある。天保郷帳によると、かつては高島村と高島新田の二ヵ村。正保国絵図に高一六三石余。元禄七年(一六九四)の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)によると、高島新田の開発は寛文七年(一六六七)。元禄三年には原新田が開発されている。天和三年郷帳では高二二四石余のほか、同所新田・高九八石四斗余。


高島村
たかしまむら

[現在地名]深谷市高島

利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は上野国新田につた二ッ小屋ふたつごや(現群馬県尾島町)小山こやま川を挟んで幡羅はら石塚いしづか村、西は中瀬なかぜ村、南は新戒しんがい村、北は利根川を境に上野国新田郡大館おおたち村・武蔵島むさしじま村・阿久津あくつ(現尾島町)。深谷領に所属(風土記稿)。中世の上野国新田庄内高嶋郷に比定され、小田原衆所領役帳にも「上州高嶋郷」とみえることから、近世以降榛沢はんざわ郡所属となり、「風土記稿」同郡総説はその時期を寛永年間(一六二四―四四)と推測している。田園簿によれば高九一五石余はすべて畑、幕府領


高島村
たかじまむら

[現在地名]七城町高島

薦入こもいり村の西にあり、南側は菊池川によって画される。村域中央を南北に椎持しいもち往還が貫く。天正一七年(一五八九)八月二八日、加藤清正は「戸田村・高嶋村」両村内五二〇石などの知行を九鬼広隆に安堵した(「加藤清正判物」九鬼文書)。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に田二四町四反七畝余・畠三〇町一反二畝余、分米五二一石二斗余とある。


高島村
たかしまむら

[現在地名]富士市蓼原たでわら・高島町

潤井うるい川の左岸の蓼原村加島かじま新田に四周を囲まれた小村。東海道が通る。しばしば洪水被害を受けた。加島新田開発によってできた新田村で、加島高島村・高島村加島新田・高島加島新田ともいう。延宝七年(一六七九)の加島領郷帳(須津文書)に高島村加島新田とみえ、高六石余、反別下田七畝余・屋敷一町一畝余。年貢率一ツ三分一厘と低かった。元禄郷帳・天保郷帳とも加島高島村で高六石余。旧高旧領取調帳では高島村とみえ同高。支配領主は元禄一一年(一六九八)幕府領から旗本久世領となり(「寛政重修諸家譜」ほか)、幕末に至る。


高島村
たかしまむら

[現在地名]富山市高島

常願寺川と神通川に挟まれた低地東寄りに位置し、東は針原中はりわらなか村・野中新のなかしん村。微高地に水害を避けて開かれたのが村名の由来と伝える。明応元年(一四九二)一〇月吉日の針原公文給帳(岩峅寺文書)によると、「高嶋」の百姓辻衛門が立山寺(現立山町)神領公文給として七〇刈で三俵を指出している。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高五二九石、免四ツ九歩。以後幕末まで草高・免に変化はない(天保一一年「高免帳」杉木家文書)。所属組は町袋まちぶくろ村と同じ。灌漑には常願寺川水系針原用水を利用(富山市史)


高島村
たかしまむら

[現在地名]川越市高島

八ッ島やつしま村の南、九十ぐじゆう川左岸低地に立地。西は九十川を隔てて小仙波こせんば村。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高五六石余・畑高三石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高九〇石余、反別田一二町二反余・畑一町二反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高八一石余・外高一一石余。


高島村
たかしまむら

[現在地名]吉田町川尻かわしり

川尻村の北に位置し、大井川の下流右岸に立地する。永禄一二年(一五六九)一〇月四日の知行書立写(松平乗承所蔵古文書)に松平真乗に引渡される知行分として高島二〇〇文とみえる。文禄二年検地高目録に飯淵高島はぶちたかしま村とみえ、高三六五石余。正保郷帳では田方一一八石余・畑方一一石余、幕府領、ほかに大明神領二石・淵黙院領三石がある。元禄郷帳では高二五三石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。享保郷村高帳では掛川藩領で、幕末まで同藩領であったと考えられる(「掛川誌稿」・旧高旧領取調帳など)


高島村
たかしまむら

[現在地名]下館市高島

勤行ごんぎよう川左岸に位置し、南は小林おばやし村。古代は「和名抄」記載の竹島たかしま郷の本郷の地に比定される(常陸誌料郡郷考)。中世には小栗おぐり御厨に属したとされ(新編常陸国誌)、文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)や寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に、村高三九三・二三七石とある。


高島村
たかしまむら

明治三五年(一九〇二)より大正一一年(一九二二)まで存続した高島郡の村。明治三五年四月高島・祝津しゆくつ両村の合併により新たに高島村が成立、二級町村制施行。この間、小樽区編入が検討されたが、小樽は商業、高島は漁業という基幹産業の相違などから反対があった(小樽市史)。大正三年高島漁業組合設立。同四年の大正天皇即位を記念して祝津新道(現祝津山手線)が開削され、あわせて牛川うしかわ(現赤岩方面)―高島市街間の通行も可能となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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