日本歴史地名大系 「高市村」の解説 高市村たかいちむら 愛媛県:今治市高市村[現在地名]今治市高市天保郷帳には高市中村と記されている。古くは高市中村(武市中村とも)といったが、江戸中期以降は、ふつう高市村と称した。今治平野南部に位置し、北は松木(まつぎ)村・徳久(とくひさ)村・上神宮(かみしんぐう)村、西は町屋(まちや)村、東は頓田(とんだ)川を境に国分(こくぶ)村・登畑(のぼりばた)村と接する。南の町屋村・宮崎(みやがさき)村との境は飛地もあり複雑である。村の南部は頓田川のかつての氾濫原にあたる。ほかは平坦肥沃で、水利もよい。安芸国沼田庄地頭小早川氏は、朝平の代に高市(たけち)郷の地頭職をも兼ね、正和三年(一三一四)と元応元年(一三一九)に代官景房が海賊を搦め捕って賞せられている(小早川家文書)。戦国期には里城(さとのじよう)があり、越智日向守通古が守ったと伝える。 高市村たかいちむら 愛媛県:伊予郡広田村高市村[現在地名]広田村高市現広田村の南西端にあって、田渡(たど)川に注ぐ高市川が村の中央を流れる。口碑によれば元暦二年(一一八五)吾河(あがわ)・三谷(みたに)(現伊予市)の根拠地を河野通信に攻められた高市俊儀主従が、浮穴(うけな)の山中に逃れ住んで開墾したので村名を高市としたという(高市村郷土史誌)。広奴田(ひろぬた)郷大田山(おおたやま)に属し、江戸時代を通じ新谷藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高市村 日損所、茅山有」、高二五八石四斗五升三合と記す。 高市村たかいちむら 秋田県:鹿角市高市村[現在地名]鹿角市花輪(はなわ) 高市間瀬(ませ)川中流域に位置し南は柴内(しばない)村。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。近世初期の「鹿角郡由来記」に「高市村 高市玄番領知 本名成田 館有」とあり、中世後期には開村していた。集落東側の西に延びる舌状台地先端部に中世の館跡があり、単郭状平坦面と館神八幡が残る。比高およそ一〇メートル、先端から約八〇メートル東方に、南北に空堀を施し郭を構成する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by