高槻城跡(読み)たかつきじようあと

日本歴史地名大系 「高槻城跡」の解説

高槻城跡
たかつきじようあと

[現在地名]高槻市城内町・野見町・出丸町

あくた川の左岸、西国街道南方、南は約三キロで淀川に達する交通の要衝に位置する。近世の高槻村と上田辺かみたなべ村にまたがる。天神山てんじんやま丘陵南側の沖積地のわずかな高まりに立地する平城で、明治七年(一八七四)に破却された時点の城地は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・出丸を含めて東西六〇〇メートル・南北六三〇メートルに及ぶ。府指定顕彰史跡。

〔中世〕

「高槻町誌」などに載せる伝承では、花山・一条天皇の頃近藤阿刀忠範なる人物が久米路くめじ山の小丘を開いて「高月殿」を築いたというが、「摂津名所図会」所収の類話であってにわかには信じがたい。高槻城は「細川両家記」の大永七年(一五二七)二月四日の記事に「高槻入江城」とみえる。当時細川高国は京にあり、三好元長らは堺から摂津中島なかじま(現大阪市)に進んで対峙していたが、その間をぬった細川晴元方の丹波柳本賢治は、この日薬師寺国盛の拠る山崎やまざき(現京都府乙訓郡大山崎町)を攻撃、敗走した薬師寺は高槻入江いりえ城に逃げこんだという。高槻城がしばしば入江城とよばれるのは、駿河国入江庄の国人入江氏が、足利尊氏の命で嫡男のなかった高槻城主(近藤氏とも高槻氏ともいわれる)の婿として入ったことによる。大永以来の城主と思われる入江駿河守春正は、天文一八年(一五四九)三月、細川氏綱と晴元との合戦のとき三好長慶らとともに氏綱方に属し、弘治三年(一五五七)六月京都で討死している。その子春継(「入江系図」近藤家文書、一説に春景)は、永禄一一年(一五六八)九月の織田信長の入京、および摂津三好攻略の際、いずれも三好氏にくみして敗北し、いったんは信長に降って安堵をうけた。翌一二年一月三好氏一族の京都本圀寺急襲には、再び三好氏のために西国街道で池田・伊丹両氏の軍を迎え撃つが、利あらず三好氏は敗退、その責によって同年四月京にて自害させられた(多聞院日記・足利季世記ほか)

本圀寺の変後無主となった高槻城は、この時三好討掃に功のあった和田惟政に与えられ、惟政は摂津守護の一人に加わり、高槻は信長分国のうちに組織された。また惟政は芥川あくたがわ城主でもあり、洗礼を受けないまでもキリシタン宣教師にたいする有力な後援者であった。一五六九年六月一日(永禄一二年五月一七日)ルイス・フロイス書簡(日本耶蘇会年報)によると、惟政はフロイスに京都居住の許可を与え、許可状をフロイスに届けたのが和田氏の家臣高山氏であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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