高雲寺(読み)こううんじ

日本歴史地名大系 「高雲寺」の解説

高雲寺
こううんじ

[現在地名]北区雲ヶ畑中畑町

臨済宗永源寺派、九竜山と号し、本尊釈迦如来。寺伝は文徳天皇の第一皇子惟喬親王が当地に隠棲した耕雲こううん宮の跡といい、親王はここで落飾後、寺を改めて真言宗の祈祷寺となしたという。親王が当寺で大般若経を書写したとも伝え、当寺に惟喬般若六〇〇巻がある。のち浄土宗に改められ、文政年間(一八一八―三〇)近辺の字みやもとの浄土宗雲照うんしよう寺および字さと正明しようみよう寺を合併した。またその頃、臨済宗永源えいげん(現滋賀県永源寺町)末である京都西京の西王寺の末寺となっている(洛北九竜山耕雲寺壁書)。江戸時代中畑なかはた村の村寺で、天保九年(一八三八)高雲寺留主位の宗貫が病気になったとき村ではわざわざ中津川なかつがわ東谷とうこく(現北区洞谷寺)真弓まゆみ清水きよみず(現同区)の二人の僧侶にその代理を依頼し、金三分一朱と人足代一五〇文を両僧に支払っている(高雲寺中畑町共有文書)

高雲寺
こううんじ

[現在地名]五戸町 愛宕後

しん町の西、専念せんねん寺の北に位置する。光明山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「高雲寺 明光山(ママ)報恩寺末寺」とある。慶長二年(一五九七)の開創で、開山は玄想、開基は木村杢助秀勝と伝える(「通幻書」「高雲寺再建立」五戸町誌)。永正四年(一五〇七)木村与市が檀那となり、百石ももいし(現上北郡百石町)より本尊を移して下根岸しもねぎしに建立したのが始まりともされ、慶長二年には現在地に移転建立したものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高雲寺の言及

【三峰山】より

…妙法ヶ岳に奥社を置く。中世以後修験道場となり,1533年(天文2)には聖護院宮から三峰大権現の神号を授けられ,別当寺を観音院高雲寺と称した。三峰信仰が普及するのは江戸中期以降であるが,山犬(狼)を権現の眷属神とする火難・盗難の除災神の性格をもち,〈御犬〉の札を門戸にはれば難を免れるとして広く信仰された。…

※「高雲寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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