日本歴史地名大系 「中畑村」の解説
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
千曲川の西岸から細長く西方の台地上に延び、更に大岳川に沿って、北八ヶ岳の
天正六年(一五七八)上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に「瑞籬二間鷹野・上村・畑物三ケ村」とあり、天正一四年依田康国領の信州佐久郡之内貫之御帳に「百五拾貫下畑分、拾壱貫大窪分、七拾貫中畑村、七拾貫上畑村」とあるから、中世の畑物村が天正一〇年以降、近世大名領国制の成立とともに上畑・中畑・下畑・大窪の四ヵ村に分れて独立村を形成するようになったものと思われる。
枝郷上野の
鷽の口は江戸時代初期の新田である。
中畑村
なかばたむら
- 静岡県:御殿場市
- 中畑村
中畑村
なかばたむら
- 愛知県:西尾市
- 中畑村
市の北西に位置し、矢作川の左岸に至る
元文元年(一七三六)の石高三八四石九斗余、新田畑六九石六斗余、銭成新田五二石二斗余、田より畑が多く、本田の免四・一。小物成に茶代があり、船運上を納める(西尾領村々高反歩永引新田記)。安永五年(一七七六)の家数二四一、人数一千二七、うち男五〇〇・女五二七(郷村雑書)。
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
慶長検地高目録では村高二三七石余、小物成三石一斗五升。当村には慶長六年(一六〇一)の検地帳の写が残り(坂上家文書)、それによると田方が一四二・五八七石(九町二反余)、畠方が大豆にして九四・六四石(七町九反余)、ほかに桑九三束、茶八〇斤が記される。
中畑村
なかばたけむら
中畑村
なかばたむら
中畑村
なかばたけむら
中畑村
なかはたむら
- 大阪府:高槻市
- 中畑村
丹波国
中畑村
なかはたむら
- 兵庫県:西脇市
- 中畑村
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
寛文一三年(一六七三)の検地帳(中畑文書)では高一六四石余、田一二町二反余・畑一町二反余。延宝七年(一六七九)にも検地が実施されたが(「検地帳」同文書)、これに先立ち同五年村役人・惣百姓は行合村と中畑村の立会の宮(行事神社のことか)の検地の免除を願出た(野洲郡史)。
中畑村
なかばたむら
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
- 青森県:弘前市
- 中畑村
岩木川に東面し、西は
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳、寛文四年(一六六四)の高辻帳に村名はない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高三六四石、うち田方五・一五七石、畑方三五八・八四三石で、畑作中心の村落である。田位は下々田で、斗代は〇・五石。畑位は上畑から下々畑まで。長栄院抱の弁才天堂があった。
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかばたむら
- 愛知県:岡崎市
- 中畑村
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかはたむら
中畑村
なかばたけむら
中畑村
なかばたむら
中畑村
なかはたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報