中畑村(読み)なかはたむら

日本歴史地名大系 「中畑村」の解説

中畑村
なかはたむら

[現在地名]矢吹町中畑・寺内西てらうちにし根宿ねじゆく寺内てらうち文京町ぶんきようちよう国神くにがみ鍋内なべうち大久保おおくぼ松房まつぼう中畑南なかはたみなみ八幡町はちまんちよう上敷面じようしきめん西長峰にしながみね五本松ごほんまつ東長峰ひがしながみね平鉢へいばち

いずみ川沿岸にあり、北西は中畑新田村、南西は松倉まつくら村。中畑新田村で奥州道中から分岐した水戸街道が通る。中畠とも記される。康永三年(一三四四)九月二四日の結城文書正文目録(伊勢結城文書)に「一通 石河・中畠当知行松崎国宣建武元年四月六日」とあり、建武元年(一三三四)に中畠が結城氏に与えられたと思われる。建武元年六月二五日の某下文写(有造館本結城古文書写)に「陸奥国石河庄中畠郷内大夫入道内田畠在家事」とあり、和知次郎重秀に宛行われている。和知重秀は結城氏の家臣である。観応二年(一三五一)正月(五月か)五日の上杉憲顕奉書(結城大蔵結城文書)によれば、石河中畠孫四郎が出陣の催促を受けているので、この時期には石川氏の支配下にあったと思われる。応永一一年(一四〇四)頃の攻守同盟とみられる国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)には「中畠 上野介師光」の名があり、石川氏の一族上野介師光の所領であったことがうかがえる。天正年間(一五七三―九二)と思われる四月一一日の白川義親書状(結城大蔵結城文書)によれば、中畠上野守が石川昭光との合戦を停止する使者を命じられている。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]八千穂村大字畑 中畑・上野・佐口さぐち鷽の口うそのくち

千曲川の西岸から細長く西方の台地上に延び、更に大岳川に沿って、北八ヶ岳の大岳おおたけ双子池ふたごいけ山麓の谷に達する東西に細長い村。東は千曲川によって下海瀬したかいぜ(現佐久町)に相対し、西は上村(現佐久町)ほか一〇ヵ村の入会山に接し、南は上畑村・八郡やこおり村に、北は下畑村・大窪おおくぼ村・上村に境している。集落は中畑本郷が千曲川畔の平地(坂下)にあり、佐久甲州往還(現国道一四一号)が南北に通じている。西方の比高五〇―一〇〇メートルの台地上(坂上)に枝郷の上野・佐口があり、更に西南方四キロの大岳川の谷口に鷽の口がある。

天正六年(一五七八)上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に「瑞籬二間鷹野・上村・畑物三ケ村」とあり、天正一四年依田康国領の信州佐久郡之内貫之御帳に「百五拾貫下畑分、拾壱貫大窪分、七拾貫中畑村、七拾貫上畑村」とあるから、中世の畑物村が天正一〇年以降、近世大名領国制の成立とともに上畑・中畑・下畑・大窪の四ヵ村に分れて独立村を形成するようになったものと思われる。

枝郷上野の子の神ねのかみ祠には元和元年(一六一五)の刻銘があり、寛永検地には佐口は既に集落をなしていたことが明らかで、この両集落の成立は中世にさかのぼるものと考えられる。佐口集落の北側の台地は小字堀と称し、数条の空堀が残っていて、中世小豪族の居館跡と考えられるが、城に関する伝承などは残っていない。

鷽の口は江戸時代初期の新田である。余地よじ峠の東麓の上州熊倉の三之丞という者が、寛永一四年(一六三七)岩穴を借りて、上村山入会の地内を切り開き、慶安二年(一六四九)検地を受けて中畑村新田となった(岡部氏蔵文書)


中畑村
なかばたむら

[現在地名]御殿場市中畑

茱萸沢ぐみざわ村の西、富士山東麓の傾斜地に位置し、北は仁杉ひとすぎ村、南西は印野いんの村。本村と枝郷の荻原おぎわら新田(現小木原)飯塚いいづか新田の三集落に分れる。うち荻原新田は印野村との村境に位置し、同村枝郷荻原新田と近世初頭には一つの集落を形成していたが、明暦元年(一六五五)の検地により、当村分と印野村分とに分離した。飯塚新田は本村の南、川柳かわやなぎ新田の北に位置する。寛永改高附帳では田高四斗余・畑高八五石余。正保四年(一六四七)の検地帳(中畑区有文書、以下断りのない限り同文書)によれば、高二二〇石余、反別は田方一町六反余・畑方三六町一反余、名請人数八六(うち屋敷持五七)。延宝八年(一六八〇)の村鑑によれば、家数六五(うち名主三・本百姓二六・村足軽一・新田百姓一一・無田一八・木地挽一、ただし合計は合わない)・人数五三〇(うち出家七)、馬五二・牛二三。


中畑村
なかばたむら

[現在地名]西尾市中畑町

市の北西に位置し、矢作川の左岸に至る碧海へきかい台地の端に集落がある。中畑橋を経て伏見屋外ふしみやそと新田(現碧南市)に至る。往古は海沿いの村であったが、矢作川改修による地形の変化で矢作川沿いの村となる。縄文晩期末から弥生前期に至る清水しみず貝塚がある。「三河国二葉松」には「中畑 磯」と記す。潮見坂しおみざか江口えぐちとよばれる小字名があり、もと漁民の集落であったという。寛永年間(一六二四―四四)新田・稲洲いなす新田が開発された。

元文元年(一七三六)の石高三八四石九斗余、新田畑六九石六斗余、銭成新田五二石二斗余、田より畑が多く、本田の免四・一。小物成に茶代があり、船運上を納める(西尾領村々高反歩永引新田記)。安永五年(一七七六)の家数二四一、人数一千二七、うち男五〇〇・女五二七(郷村雑書)


中畑村
なかはたむら

[現在地名]北区くも畑中畑はたなかばた

雲ヶ畑三ヵ村の一つで、雲ヶ畑川に沿い、出谷でたに村の南に位置する。享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳による村高は四四石一斗九升余で、すべて仙洞御料。

山間の村で、隣接地域としばしば山争いを引起こした。特に上賀茂かみがも村とは中世以来再三にわたり山論を行い、天文一三年(一五四四)の山論終結直後、上賀茂側から出された請文には次のごとくある(岩佐家文書)

<資料は省略されています>

上賀茂村とは近世に入ってもしばしば山論が起こり、慶安年間(一六四八―五二)には両地域の境の山をめぐって四ヵ年にもわたって争った(高雲寺中畑町共有文書)


中畑村
なかはたむら

[現在地名]打田町中畑

神通じんづう村の西、葛城(和泉)山脈南山中に位置し、東流する二瀬ふたせ(瀬川とも)沿いに集落が点在する。西は今畑いまはた村に接し、「続風土記」は「今畑と神通畑との間に在るを以て中畑と呼ふなり」と記す。また「中畑村より北に向ひて谷に入るを猪谷といふ、路最嶮隘にて十七町にして城ケ峰に至る、これを紀泉の界とす」ともある。中世は池田いけだ庄に含まれた。

慶長検地高目録では村高二三七石余、小物成三石一斗五升。当村には慶長六年(一六〇一)の検地帳の写が残り(坂上家文書)、それによると田方が一四二・五八七石(九町二反余)、畠方が大豆にして九四・六四石(七町九反余)、ほかに桑九三束、茶八〇斤が記される。


中畑村
なかばたけむら

[現在地名]平村中畑・下梨しもなし

見座みざ村の東、庄川左岸沿いの傾斜地に位置する。庄川支流の滝谷たきだに川を挟んで垣内(枝村)漆原うるしばら(現下梨地内)がある(三州志)。近世初期までは中畠・菜畠と書き、天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「下梨」の内に中畠兵衛・中畠太郎左衛門尉の名がみえる。元和五年(一六一九)九月の五ヶ山検地帳(中畑区有文書)には「下梨組菜畠村」とあり、高八五石余(幕末まで変化なし)、免四ツ八歩。寛永七年(一六三〇)の免定(同文書)によると免五ツ三厘余、納所金子一四両二匁七分余・塩硝代一匁四分余。


中畑村
なかばたむら

[現在地名]前沢町古城こじよう

せき村の北に位置し、奥州街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田方一〇一貫七〇七文・畑方一三貫五六三文、ほかに新田高二〇貫六四七文。「安永風土記」では田一三一貫三文・畑二三貫五〇六文(うち茶畑二二〇文)、うち蔵入一四四貫六四八文・給所九貫八六一文。人頭一四一・代数有之百姓二、家数一四二(うち水呑二)、人数六三六、馬一四九。神社三(熊野社など)、寺一(曹洞宗大儀寺)、古館一(樫山館)、古塚一(姥神塚)、御林二、堰四(寿庵堰支流林上場堰・種次堰・拾人橋堰・小山遠堰、溜高計一一八貫余)


中畑村
なかばたけむら

[現在地名]中道町中畑

滝戸たきど川の最上流域、曾根そね丘陵上に位置する。集落は滝戸川の両河岸が下流へ向かって開けていく辺りに形成された。もと北の上向山かみむこうやま村の枝郷で寛文三年(一六六三)に分村した(中道町史)。同一二年には九一色くいしき(現上九一色村)との境にある日向ひなた山の利用をめぐり、上向山村などが下芦川しもあしがわ(現三珠町)古関ふるせき村・かけはし(現上九一色村)の三ヵ村を訴えているが、このとき当村も下向山村・右左口うばぐち村とともに訴訟方に加わっており(「訴訟書上写」同書)、村高二六〇石に応じて訴訟費用を負担した(「定書覚」同書)


中畑村
なかはたむら

[現在地名]高槻市中畑

丹波国桑田くわた郡に属し、出灰いずりは村の北にある。あくた川の最上流中畑川の河谷に位置し、東は山城国乙訓おとくに外畑とのはた(現京都市西京区)、北は桑田郡玉子おうじ村領ほか(現京都府亀岡市)。村内をほぼ東西に走る道(現府道向日町―柚原線)は、楊谷やなぎだに観音楊谷ようこく(現同長岡京市)から洛西に至る巡礼道という。谷間に中畑・久保条くぼじよう藤木ふじきしももりなどの垣内集落が散布する。明治中頃まで中ノ畑ともいった。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]西脇市中畑町

岩鼻いわはな新田村の東に位置する。加古川支流畑谷はたたに川沿い、西光寺さいこうじ山の西側山麓にある。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に「ナカハタ」(中畑)と「カエリイシ」(還石)比延ひえ庄の一色としてみえる。還石は当地の高野山真言宗還石げんせき寺付近の地名と考えられる。一色は庄園領主から賦課される租税のうち土地にかかる年貢だけは納めるが、人に対する公事は負担しない。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]弘前市中畑

東は目屋めや川に面し、北は中野なかの村、南は田代たしろ(現中津軽郡西目屋村)、西は杉ヶ沢すぎがさわ(現西目屋村)と接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字の鼻和はなわ郡内に「中畑」とあるが、この中畑村である確証はない。また「津軽一統志」に古城の所在地として中畑が記され、中畑惣助が同城に居住したとある。

寛永一七年(一六四〇)一一月二日付の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)に村名がある。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]野洲町行畑ゆきはた

行合ゆきあい村の南にある。条里地割が近年までみられ、字さんつぼの呼称も残る。集落は南部の字村之内むらのうちに集中する。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に中畠村とみえ一五七石余。寛永石高帳では高一四七石余。慶安高辻帳では田一三八石余・畑五石余・永荒二石余。江戸初期は幕府領、元禄一一年(一六九八)以降旗本斎藤領。

寛文一三年(一六七三)の検地帳(中畑文書)では高一六四石余、田一二町二反余・畑一町二反余。延宝七年(一六七九)にも検地が実施されたが(「検地帳」同文書)、これに先立ち同五年村役人・惣百姓は行合村と中畑村の立会の宮(行事神社のことか)の検地の免除を願出た(野洲郡史)


中畑村
なかばたむら

[現在地名]荘川村中畑

しよう川の河岸段丘に開けた村。同川沿いに白川しらかわ街道が通り、西は庄川で限られ、南は新淵あらぶち村。古くは水利の便がなく主として畑作で稗を作っていた。慶長一八年(一六一三)飛騨国郷帳の白川ノ郷に村名がみえ、高一〇三石余。元禄検地反歩帳の高四石余、田五町三反余・畑一町三反余。「飛騨国中案内」によれば免は四割五厘三毛、家数一七、うち百姓一二・門屋二・家抱三。「斐太後風土記」の高五一石余、焼畑一町余、ほか二町余、家数一六・人数一〇〇。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]安浦町中畑

下垣内しもかいち村の西にあり、北は前平まえひら(五〇一・二メートル)、南西には野呂のろ(八三九・四メートル)がそびえる。村域は広く、現安浦町西部の大部分を占めるが、ほぼ全域が標高五〇〇―八〇〇メートルの山地で東方に傾斜をする。集落は北方を東流する中畑川流域と、東南流する野呂川上流域にわずかに点在するにすぎない。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高二三三・七石とあり、「芸藩通志」には田畝一八町九段五畝余、高二二四・三石、戸数一一二・人口四五六、牛四七を記し、「農余山業あり」とある。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]吉井町中畑、御津みつ郡御津町中畑

広戸ひろど村の南にあり、標高二〇〇メートル以上の山々が連なる高地に位置するため平地が少ない。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)平岡ひらおか庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高五二六石余。正保郷帳には枝村定重さだしげ村・石指いしざし村、柿坂村(現御津町)が載る。「備陽記」では田畠四三町一反余、家数八二・人数五三〇、池六。枝村は石橋いしはし柿坂かきざか・定重・道重みちしげ大淵おおふち(現御津町)


中畑村
なかはたむら

[現在地名]弘前市三和みわ

岩木川に東面し、西は大蜂だいばち川を挟んでかわ村、北は野木のぎ(現北津軽郡鶴田町)、南は小友おとも村と接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳、寛文四年(一六六四)の高辻帳に村名はない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高三六四石、うち田方五・一五七石、畑方三五八・八四三石で、畑作中心の村落である。田位は下々田で、斗代は〇・五石。畑位は上畑から下々畑まで。長栄院抱の弁才天堂があった。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]桃山町中畑

細野ほその川東岸に東西に細長く広がる村で、北はみね、東は根来窪ねごろくぼ、南は四郷よごう勝谷かちや(現海草郡美里町)の各村に接する。高野山領で、「続風土記」は村高を峰村と合せて一七二石余とする。戸口は分けて記され、当村は家数一四、人数一一〇。高野山真言宗阿弥陀あみだ寺は、寛文年間(一六六一―七三)の草創と伝え、「続風土記」は「境内周四十六間、村中にあり、本堂僧坊あり」と記すが、大正九年(一九二〇)に焼失し、その後一堂が再建された。


中畑村
なかばたむら

[現在地名]岡崎市岩中いわなか

青木あおき川の上流の村落。西は大井野おおいの村・板田いただ村・田口たぐち村を経てたき村に通じる。北は岩谷いわや村、東南は山続きで標高二二三メートルの峠を経て須淵すぶち村・岩戸いわと村に出ておと川水域に接する。集落は谷間に散在する。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]水口町中畑

新城しんじよう村の北に位置し、水口丘陵に囲まれる。北は蒲生がもう郡境。中世は儀俄ぎか庄に属し、新城村と一村であったと伝える。寛永石高帳では高二九五石余、慶安二年書上では田二三〇石余・畑屋敷一七石余・永荒四七石余。領主の変遷は林口はやしぐち村と同じ。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]耶馬渓町中畑

檜原ひばる山南麓にあり、南は栃木とちのき村、西は大野おおの村。古老の伝えるところによれば、かつては灌漑の便が悪く、江戸時代に入り檜原山に溜池を作ってから水田ができたという。もと津民つたみ村の内で、幕末に独立したと考えられる。


中畑村
なかばたけむら

[現在地名]挟間町田代たしろ

来鉢くばち村の北西、石城せきじよう川右岸沿いに位置する。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷内成組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高二六石余・畑高六石余、挟間はさま庄に所属。柴山ありと注記される。


中畑村
なかばたむら

[現在地名]荻町柏原かしわばる

正保郷帳では仲畑村とあり、柏原郷に属し、田方八石余・畑方二三石余。万治元年(一六五八)には田高九石余・畑高二一石余・屋敷高七斗余とある(荻町史)。弘化物成帳では柏原組のうち、村位は中、免三ツ九分、田一五石余(一町五反余)・畑一二〇石余(二一町二反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑一石余(二町余)がある。


中畑村
なかはたむら

[現在地名]奈良市中畑町

興隆寺こうりゆうじ村の東にある。慶長郷帳の村高一七八・一七石。近世の初め幕府領(代官大久保長安)、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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