鮫ヶ尾城跡(読み)さめがおじようあと

日本歴史地名大系 「鮫ヶ尾城跡」の解説

鮫ヶ尾城跡
さめがおじようあと

[現在地名]新井市宮内・雪森・籠町・乙吉

雪森ゆきもり宮内みやうち籠町かごまち乙吉おとよし西方、標高一八三メートルの山頂部に本丸がある。本丸から南と北へ延びる尾根沿いに大小数十の曲輪跡・空堀や土塁・井戸などが残る。乙吉の字立の内たてのうちに根小屋があり、勝福しようふく寺に南隣する通称御館おたての地は館跡とみられる。築城年代は不明であるが、戦国期に上杉氏により信濃方面警戒のため鳥坂とりさか城とともに春日山かすがやま(現上越市)前衛として築かれたものといわれる。天正七年(一五七九)三月一九日の上杉景勝書状(浅間文書)に「一昨十七日、館落居、敵悉討捕之候、さめのを一城成置候、種々計策成之、堀江かたへ申越候条、落居程有間敷候、可心易候」とあり、御館の乱の折上杉景虎方の堀江宗親が当城を守備していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鮫ヶ尾城跡」の解説

さめがおじょうあと【鮫ヶ尾城跡】


新潟県妙高市宮内・雪森にある城跡。県の南部、西頸城(にしくびき)山地一角を占める低丘陵に位置する。1579年(天正7)の史料に「さめかを」「鮫尾」とある戦国期の山城である。上杉謙信が没した1578年(天正6)、謙信の養子景勝と景虎による後継争いが表面化し、御館(おたて)の乱に発展。その両者の最後の決戦場となったのが、堀江宗親が守っていたこの城であり、景虎は当地で自刃したと伝えられている。城跡は、谷筋までの自然地形を含む範囲が約25万m2に及び、おもな遺構は丘陵の主稜線上に並ぶ6ヵ所の大曲輪(おおくるわ)、6条の長大な堀切り、100ヵ所を超える切り岸などであり、遺構の残存状況は良好である。発掘調査によって広範な範囲で火をかけられた跡があり、16世紀後半を主体とする遺物がまとまって出土していることなどから、戦国期の政治や築城技術を知るうえで貴重とされ、2008年(平成20)に国の史跡に指定された。JR信越本線北新井駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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