鳥取春陽(読み)トットリ シュンヨウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「鳥取春陽」の解説

鳥取 春陽
トットリ シュンヨウ


職業
作曲演歌

本名
鳥取 貫一

生年月日
明治33年 12月16日

出生地
岩手県 下閉伊郡刈屋村(宮古市)

学歴
高等小学校卒

経歴
先祖は平家に繋がる資産家に長男として生まれたが、12歳の時に家が没落した。幼い頃に実母を亡くしており、14歳で家出して上京。やがて演歌師となり、大正6年初めて作った曲に歌詞を付けてもらうために添田唖蝉坊のもとを訪ね、唖蝉坊の長男・添田さつき(知道)が歌詞を書いた「みどり節」が処女作となる。その後、「ピエロの唄」「浮草の旅(シーハイルの歌)」「馬賊の唄」など次々と流行歌を書き、中でも11年頃に作られた「籠の鳥」は帝国キネマにより映画化されて大当たりをとり、傾いていた同社の経営を立て直したのみならず、主題歌として大流行。10種類以上のレコードが発売され、また哀調を帯びたメロディーと悲恋ものの歌詞が教育上良くないと、子どもが歌うのを禁止させる運動まで起こったといわれる。レコード吹き込みは13年の「復興節」が最初とされる。同年頃に大阪に拠点を移してヒットを連発し、“東の添田さつき、西の鳥取春陽”と並び称された。15年には日本蓄音器商会(コロムビア・レコード)の子会社であるオリエントレコードと専属契約を結び、これは我が国最初の専属作曲家第一号とされる。昭和初期に入ると新民謡や、正岡容作詞による行進曲もの、カフェー歌謡などの流行歌を次々と書き、「ストリートガール」「望郷の歌」ではいち早くジャズの手法を導入。自作自演の演歌師から流行歌の作曲家へと移行した先駆者であり、また、その音楽的才能から作詞・作曲・歌・演奏の全てをこなせるシンガー・ソングライターの嚆矢として、昭和初期の歌謡界を代表する作家の一人となった。昭和5年にはそれまでの活動の集大成といえる楽譜集「モダン流行小唄集」を出版し、同年には「思い直して頂戴な」もヒット。大阪から上京して東京を舞台に活躍しようとした矢先、7年結核のため31歳で病没した。

没年月日
昭和7年 1月16日 (1932年)

伝記
演歌に生きた男たち―その栄光と挫折の時代 今西 英造 著(発行元 中央公論新社 ’01発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「鳥取春陽」の解説

鳥取 春陽
トットリ シュンヨウ

大正・昭和期の作曲家,歌手



生年
明治33(1900)年12月16日

没年
昭和7(1932)年1月16日

出生地
岩手県刈屋村(現・下閉伊郡新里村)

経歴
14歳で家出して上京。17歳から作曲活動を始め、シンガーソングライターとして活躍。幅広いジャンルで3000曲以上を作曲し、大正11年から13年にかけて「籠の鳥」「浮草の旅」(シーハイルの歌)「船頭小唄」「のんき節」など数々のヒット曲を生み出した。昭和5年出版の「モダン小唄集」は、昭和流行歌の源泉ともいわれる。平成12年出生地の岩手県・新里村で、生誕100年を記念した演奏会や講演会が開催された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鳥取春陽」の解説

鳥取春陽 とっとり-しゅんよう

1900-1932 大正-昭和時代前期の作曲家。
明治33年12月16日生まれ。バイオリンをひきながら自作の演歌をうたう歌手としてデビュー。オリエントレコードの専属作曲家第1号となり,大正12年の「籠の鳥」は大ヒットした。ほかに「思い出した」などがある。昭和7年1月16日死去。33歳。岩手県出身。本名は貫一。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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