日本歴史地名大系 「鳩ヶ谷市」の解説 鳩ヶ谷市はとがやし 面積:六・二二平方キロ市域はほぼ東西南北とも川口市に囲まれ、わずかに南東部で東京都足立区に接する。北部は大宮台地の南端に位置し、標高一五―二〇メートルほどの平坦地。南部は荒川低地の一部で、川口市や蕨市の低地と連続しており、標高は北部の曲田(まがりた)で約五メートル、南部の八幡木(はちまんぎ)で四メートル。この低地には荒川(旧入間川)の流路跡が残されており、曲田から八幡木の北を通って毛長(けなが)堀に通じる。〔原始・古代〕市内で確認されている遺跡は台地上で一八、低地で二〇の三八ヵ所。台地上には旧石器―縄文―弥生時代の遺跡が多く、低地の自然堤防上には弥生時代後期から古墳時代、奈良・平安時代の遺跡がある。旧石器時代の遺跡に浦寺(うらでら)遺跡があり、礫器・石核、縦長の剥片などが出土している。とくに典型的な石器はないが、チャートを主体とした石材で、縦長剥片を作り出す石器製作技法の存在が石器群の特徴である。自然堤防上の三ッ和(みつわ)遺跡は東に毛長堀、西に後背湿地がある広大な遺跡。古墳時代前期の竪穴住居跡や平安時代末期の土器を一括埋納した遺構、中世の掘立柱建物跡・井戸跡などが発掘され、古墳時代前期の甕形土器などの土師器や平安時代の土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器が発見された。同遺跡の北に仙元祠(せんげんし)古墳跡がある。当市域に直接かかわる古代史料はないが、「和名抄」所載の足立郡発度(ほつと)郷を現川口市から鳩ヶ谷市辺りに比定する説がある(「日本地理志料」など)。〔中世〕当市域中央部から北部にかけては鳩谷(はとがや)郷に含まれた。鎌倉時代には鳩谷兵衛尉重元が同郷地頭を勤め、のち北条氏一門の所領となったとみられる。建長八年(一二五六)鎌倉幕府は奥大道(鎌倉街道中道)の警固を沿道の地頭らに命じているが、そのなかに「鳩井兵衛尉跡」(「吾妻鏡」同年六月二日条)がみえ、同郷は奥大道沿いに位置していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by