上新田村(読み)かみしんでんむら

日本歴史地名大系 「上新田村」の解説

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]豊中市上新田一―四丁目・新千里しんせんりひがし町一―三丁目・西にし町一―三丁目・きた町一―三丁目〉

熊野田くまのだ村の北東、千里丘陵中にあり、現豊中市域では唯一島下しましも郡に属した村。島下郡山田やまだ八ヵ村(七ヵ村は現吹田市)の一で、南に同じく山田八ヵ村の一、下新田村がある。寛永三年(一六二六)下新田村とともに山田下村(現吹田市)の枝村として高請されて成立。安永(一七七二―八一)から寛政(一七八九―一八〇一)にかけて成立した新田由来記(小畑家文書)によると、新田開発の経過は寛永三年幕府代官間宮三郎右衛門の指図により、山田下村吉田五郎右衛門・田中安右衛門・吉田権兵衛の三人が頭取となって村高八〇石で請負い、本郷山田村との境界を定めて開発したという。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]大井川町上新田

上泉かみいずみ村の東に位置し、南は宗高むなだか村、北は駿河国志太郡土瑞どずい(現藤枝市)田沼たぬま街道(相良街道)が通る。近世初期に宗高村の新田として開発され、天正一九年(一五九一)一一月の山内一豊判物(山下家文書)に宗高新田とみえる。寛文四年(一六六四)の検地の際に上新田と改めたという(大井川町史)。この検地で田畑五〇町八反余が打出され、名請人三七人(文久三年「村明細帳」河守家文書)

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]玉村町上新田

群馬郡に属し、東は与六分よろくぶ村・那波なは下新田しもしんでん村、北は板井いたい村、西は下斎田しもさいだ村・八幡原やはたばら(現高崎市)。日光例幣使街道が通る。滝川たきがわ用水の完成に伴う新田開発によって成立したと思われる。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方六四三石余・畑方二七七石余。近世後期の御改革組合村高帳でも同高、幕府領、家数一一一。日光例幣使街道の玉村宿として賑った。寛政五年(一七九三)の滝川用水上流天狗岩てんぐいわ用水の普請人足勘定帳(天田文書)によると人足五五〇人八分を負担。「天保巡見日記」天保九年(一八三八)四月一六日条によると、巡見使は八幡原村、下新田、当村などを通り、「高崎よりこの辺迄砂め之真土至極之上田とミゆ、たゝ用水引来る道遠く、六月中旬にならされは水十分にかゝらす、夫ゆへに仕附時後れて、年々難渋すといへり」とある。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]鶴ヶ島市上新田・高倉たかくら

町屋まちや村の北東にあり、北は入間いるま森戸もりど(現坂戸市)高麗こま松山まつやま領に属した(風土記稿)。慶安二年(一六四九)の川越領高倉之内上新田村検地帳(高篠家文書)があり、中新田村・下新田村と同様に高倉村内の地を開墾して成立した新田とみられる。高倉上新田ともよばれた(元禄七年柳沢保明領知目録)。慶安二年の検地帳によれば畑二八町六反余・屋敷地四町七反余。名請人二四名、うち村内居住者二二名で全部が屋敷持だが、これらの百姓たちは村外の名請人二名の分付百姓となっている。検地当時は川越藩領。元禄二年(一六八九)から四年の年貢割付状(高篠家文書)では高一四九石余。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]鳩ヶ谷市八幡木はちまんぎみなみ二丁目

中居なかい村の南に位置し、平坦な村。元禄検地の際に弥兵衛やへえ(現川口市)から分村したという(風土記稿)元禄郷帳では高五一石余で、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝永三年(一七〇六)村内二九石余が江戸根津ねづ権現社領となる(安政二年「岩淵川口両宿組合地頭性名其外書上帳」永瀬家文書)。明和二年(一七六五)から岩淵いわぶち(現東京都北区)・川口両宿へ当村幕府領分(勤高二二石)定助郷に出役(「岩淵川口両宿助郷証文」同文書)

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]前橋市上新田町・大利根町おおとねまち

北は小相木こあいぎ村、西は箱田はこだ村、南は下新田村に接し、東の利根川対岸はぬでじま村・六供ろつく村。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)によれば、高七一九石二斗余、内訳は田方四五町五反余・畑方三〇町一反余で、高崎藩領である。天明三年(一七八三)浅間山噴火の被害は「少泥入」であった(浅間嶽焼荒記)。寛政五年(一七九三)の天狗岩堰普請人足勘定帳(天田文書)では高九二〇石七斗余に対し、人足五五〇人八分を負担している。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]谷田部町高良田たからだ

高須賀たかすか村の西、小貝こかい川東岸に位置。字四谷の中台よつやのなかだい遺跡は集落跡で土師器が出土。中台貝塚は集落跡で縄文中期の土器・土師器が出土。中台東なかだいひがし遺跡は集落跡で須恵器が出土。古くは高須加古たかすかふる新田と称し、正保―元禄(一六四四―一七〇四)の間に高須加上新田村と改称(新編常陸国誌)、上新田村を経て明治一九年(一八八六)下新田しもしんでん村と合併して高良田村となった。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]小国町千谷沢ちやざわ 原小屋はらごや

渋海しぶみ川右岸沿いにあり、集落は下新田村同様、原小屋にある。小国東組に属する。元和七年(一六二一)千谷沢村による開発という(小国町史)。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚に千谷沢村の新田として高八七石四斗余を記す。元禄五年(一六九二)の小国東組郷鏡帳(林久氏蔵)に上新田村と記す。村高に変化なく、田は一町四反余・畑屋敷一町一反余。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]十日町市下条げじよう 上新田

なか新田村の南。信濃川の支流飛渡とびたり川を挟んで南は中条なかじよう村。「新編会津風土記」によると、慶安年中(一六四八―五二)の開発と伝える。枝村に為永林ためながばやしがある。天和三年郷帳では川口組に属し、高四六〇石四斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数一〇八、男二三七・女一九八。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]西脇市上王子町かみおうじちよう

合山あやま村の西、野間のま川北岸に位置する。加西郡に属する。万治三年(一六六〇)から開拓が始まったと伝える(「覚」丸山家文書)。元禄郷帳に合山村枝郷と肩書されて村名がみえ、高二五石余。天保郷帳では高三〇石余。初め幕府領、元禄一六年(一七〇三)下野烏山藩領、享保一一年(一七二六)幕府領と変遷後、延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり幕末に至る(「村古記録」宇仁菅家文書、「徳川実紀」、「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書、旧高旧領取調帳)

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]小田原市上新田

北は鴨宮かものみや村、東は下新田村、西は飯泉いいずみ村に接する。鴨宮村内を開墾して成立した新田村。貞享二年(一六八五)の御引渡記録(県史四)に村名がみえ、元禄郷帳には「鴨宮村枝郷」と記される。小田原藩領。中新田村・下新田村とともに小田原城火消役として宮前みやまえ口へ人足二八人の出動を負担(御引渡記録)

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]下妻市下宮したみや

若柳わかやなぎ村の東にある。元禄一一年(一六九八)の常陸国西河内郡上・中・下新田書上(「村明細帳の研究」所収)によれば、寛永一六年(一六三九)に天領であった若柳村のうちを図書という者が開発し、図書ずしよ新田と称したが、その後古河藩領となって万治二年(一六五九)・寛文五年(一六六五)に地詰が行われ、反別五七町八反二畝一三歩となり、その際に上新田と改称する。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]伊那市大字伊那部いなべ 上新田

下新田村の東、三峰みぶ川の北側にあり、狐島きつねじま村の枝村であるが、成立年代は不明。高遠たかとお藩の鳥居氏時代(一六三六―八九)家中かちゆう新田が村の起りと考えられる。

上新田村
かみしんでんむら

[現在地名]飯山市大字木島

千曲川の自然堤防上を親村の安田やすだ村より北方に延びる集落で、北部は野坂田のさかだ村に接する。慶長一八年(一六一三)三月、飯山城主堀直寄が飯縄社に二石の神領を寄進、「安田村新田内」(「堀直寄寄進状」飯縄神社文書)としているのは当村であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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