安井息軒(読み)ヤスイソッケン

デジタル大辞泉 「安井息軒」の意味・読み・例文・類語

やすい‐そっけん〔やすゐソクケン〕【安井息軒】

[1799~1876]江戸末期の儒学者。日向ひゅうがの人。名は衡。あざなは仲平。飫肥おび藩校の助教、のち、昌平坂学問所教授考証にすぐれたが、海防・軍備などの政策も論じた。著「左伝輯釈」「論語集説」「海防私議」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「安井息軒」の意味・読み・例文・類語

やすい‐そっけん【安井息軒】

  1. 江戸末期の儒者。日向国(宮崎県)飫肥(おび)の人。名は衡、仲平と称した。父滄洲は飫肥藩儒。篠崎小竹松崎慊堂師事。飫肥侯に仕え、のち昌平黌の教授となる。嘉永六年(一八五三)、「海防私議」を著わして世に認められる。漢唐の注疏を主として衆説を参酌し、「書説摘要」「管子纂詁」「左伝輯釈」等を著わした。また、洋学にも関心を示し、天文・暦学に長じた。寛政一一~明治九年(一七九九‐一八七六

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安井息軒」の意味・わかりやすい解説

安井息軒(やすいそくけん)
やすいそくけん
(1799―1876)

幕末の儒学者。寛政(かんせい)11年元旦、古学派の儒者安井滄洲(そうしゅう)(1767―1835)の次男として日向(ひゅうが)国(宮崎県)清武(きよたけ)(現、宮崎市)に生まれる。名は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)。息軒と号す。1819年(文政2)21歳で大坂遊学、兄の死とともに帰る。1824年26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入るが、3年で退学して松崎慊堂(まつざきこうどう)の門に入り、古注学を修める。1827年退塾、藩主飫肥(おび)侯の侍読となり、藩校設立とともに父滄洲は教授、息軒は助教となる。ほどなく辞して昌平黌に再入学する。刻苦勉励してその学名はようやく世に高まるに至った。1841年(天保12)43歳のとき江戸に三計塾(さんけいじゅく)を開き、多くの英才がその門に集まった。49歳で再度藩侯に召され、重用される。1853年(嘉永6)ペリー来航にあたっては『海防私議』を著して国防の要を論じた。徳川斉昭(とくがわなりあき)はこれに感じて、藤田東湖(ふじたとうこ)を遣わして意見を聞かせている。1862年(文久2)64歳にして昌平黌の儒官にあげられた。程朱学をもっぱらとする昌平黌に古学者息軒を登用したことは異例のことであった。明治維新ののちは著述に過ごし、明治9年9月23日東京に没した。78歳。息軒の学風は、古学の立場をとり、漢唐の古注学を本とし考証を重んじたところにある。宋明(そうみん)の学は理に走ってかえって道に遠ざかるものと批判し、清儒(しんじゅ)の学は古学を発明すること大なるものがあると記している。著書は『書説摘要』(1868成立)『毛詩輯疏(しゅうそ)』『周礼補疏(しゅらいほしょ)』『論語集説』(1872)『大学説』(1909)『中庸(ちゅうよう)説』(1909)『孟子(もうし)定本』(1909)『管子纂詁(かんしさんこ)』(1866)『左伝輯釈』(1871)『弁妄(べんもう)』『息軒文鈔(ぶんしょう)』『息軒遺稿』(1878)その他多数に及ぶ。

[渡部正一 2016年7月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「安井息軒」の意味・わかりやすい解説

安井息軒【やすいそくけん】

幕末明治初期の儒学(古学)者。名は衡,字は仲平(ちゅうへい)。日向(ひゅうが)飫肥(おび)藩儒安井滄洲(そうしゅう)の子。26歳で昌平黌(こう)に入り,松崎慊堂(こうどう)に学ぶ。一時飫肥藩校助教などを務めたが,のち昌平黌教授。漢・唐の古注を尊び,清の考証学を好んだ。1853年のペリーつづいてプチャーチンの来航に際し,《海防私議》を著し時事を説いた。注釈書に《左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)》《管子纂詁(かんしさんこ)》など,文集に《息軒文鈔》《息軒遺稿》など。
→関連項目清武[町]雲井竜雄

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「安井息軒」の意味・わかりやすい解説

安井息軒 (やすいそっけん)
生没年:1799-1876(寛政11-明治9)

江戸後期~明治初期の儒学者。名は衡,字は仲平。日向飫肥(おび)藩儒安井滄洲の子。はじめ篠崎(しのざき)小竹,のち昌平黌および松崎慊堂(こうどう)に学ぶ。1830年(天保1)藩校助教となり藩政にも参与したが辞し,38歳再び江戸に出て学を極め弟子をとった。一時藩邸にも勤務したが,62年(文久2)昌平黌教授に抜擢(ばつてき)された。学問は中年以後復古を主とした。著書《息軒文鈔》などのほか注釈書も多い。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「安井息軒」の解説

安井息軒
やすいそっけん

1799.1.1~1876.9.23

幕末・維新期の儒学者。儒学者安井滄洲の子。名は衡,字は仲平,別号は半九陳人など。日向国宮崎郡生れ。大坂で篠崎小竹に,江戸で昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。日向国飫肥(おび)藩藩校の設立に際し,助教となり総裁の父を助けた。江戸再遊後,1839年(天保10)江戸で三計塾を開く。ペリー来航に際し「海防私議」を著し,水戸藩主徳川斉昭に認められた。62年(文久2)昌平黌儒官となる。漢唐の註疏を学び,考証にもすぐれた。著書「論語集説」「管子纂古」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安井息軒」の解説

安井息軒 やすい-そっけん

1799-1876 江戸後期-明治時代の儒者。
寛政11年1月1日生まれ。安井滄洲(そうしゅう)の次男。日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士。江戸で昌平黌(しょうへいこう)にはいり,また松崎慊堂(こうどう)に古注学をまなぶ。天保(てんぽう)2年藩校振徳堂の助教となり,のち江戸に三計塾をひらく。文久2年昌平黌教授。ペリー来航のときあらわした「海防私議」は徳川斉昭(なりあき)にみとめられた。明治9年9月23日死去。78歳。名は衡。字(あざな)は仲平。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安井息軒」の意味・わかりやすい解説

安井息軒
やすいそっけん

[生]寛政11(1799).1.1. 日向
[没]1876.9.23. 東京
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。名は衡,字は仲平。安井朝寛の次子。日向飫肥藩士。初め大坂に出て篠崎小竹に学び,次いで江戸へ出て昌平黌に入り,松崎慊堂に師事した。昌平黌や飫肥藩の儒官として活躍。漢唐の古注疏を重んじ,考証にすぐれ,名文家として知られ,軍備の必要を論じるなど現実政治にもかかわり,洋学にも関心を示した。著書『海防私議』『論語集説』『左伝輯釈』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「安井息軒」の解説

安井息軒
やすいそっけん

1799〜1876
幕末の儒者
日向の人。昌平坂学問所に学び松崎慊堂 (こうどう) に師事。1853年アメリカ船来航の際,『海防私議』を著し軍備の必要を説き,徳川斉昭 (なりあき) に認められた。古学派に属しながら昌平坂学問所の教授に登用された。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「安井息軒」の解説

安井 息軒 (やすい そくけん)

生年月日:1799年1月1日
江戸時代;明治時代の儒学者
1876年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安井息軒の言及

【清武[町]】より

…近年,食品,電器などの工場の進出や宮崎医科大学の開設に伴い,人口は増加傾向にある。幕末の儒者安井息軒の出身地で,旧宅が半九公園にあるほか,清武城跡,黒坂観音などもある。清武川の黒北発電所は県内最古の水力発電所として知られる。…

※「安井息軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android