鵜飼村(読み)うかいむら

日本歴史地名大系 「鵜飼村」の解説

鵜飼村
うかいむら

[現在地名]珠洲市宝立町鵜飼ほうりゆうまちうかい

法住寺ほうじゆうじ村の東にあり、鵜飼川の河口部から南の見附みつけ島を含む村域。内浦街道が通る。貞治二年(一三六三)八月三日、大願主幸海・執筆良慶により法住寺白山宮に施入された大般若経の第三七巻が「宇飼九間御堂」で書写されている(四坪薬師寺大般若波羅蜜多経奥書)。永正一五年(一五一八)三月、能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」には鵜飼とみえる。天正一五年(一五八七)七月一〇日付の未進請乞分金子小請取状(妙厳寺文書)に同一三年分の扱いとして宛名を「直郷鵜飼町彦左衛門方」としている。また鎮守の近江路おうみじ住吉社の祭礼では仮屋が旧河口部に設けられ、元来同社は弘国ひろくに村の庄官弘国が祀ったとする伝承がある。さらに当地に刀禰家を称する佐左衛門家(のち間役人)がいたことなどから、当地は若山わかやまただ郷の年貢ほかの諸物資を積出す湊として発達した集落であったと考えられる。


鵜飼村
うかいむら

[現在地名]滝沢村鵜飼

諸葛もろくず川流域に位置し、北に岩手山がそびえる。東は下栗谷川しもくりやがわ(現盛岡市)、北は滝沢村。安永九年(一七八〇)の厨川通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば、土淵つちぶち(現盛岡市)から入る道の西側に神明とみえ、その北に稲荷、その東に明神・三ヶ月堂がみえ、西に鬼古里おにこり山、北に蒼前そうぜん堂の社と鳥居がある。寛永二年(一六二五)二月二九日の鵜飼宮内宛南部利直知行宛行状(八戸鵜飼文書)によれば、「岩手郡鵜飼村本地之内六拾六石弐斗九升三合」を含む一五〇石が宛行われた。鵜飼氏は初め不来方こずかた(現盛岡市)にあって福士を称した。福士慶善が不来方のうち北館におり、のち鵜飼村へ移され、姓を鵜飼と改めたという(盛岡市の→盛岡城跡

正保国絵図に村名がみえ、高一八九石余。鵜飼新田が開かれ、「雑書」延宝八年(一六八〇)三月一六日条に「新田替地被遣覚」として「弐百石上市川村・五拾石又重村・五拾石松尾村、〆三百石、鵜飼新田と替被遣、奥瀬久米之助」とある。


鵜飼村
うかいむら

[現在地名]太子町広坂ひろさか

甚左衛門じんざえもん捌の北に位置する。大市おおいち郷に属する。元和三年(一六一七)幕府領、寛永三年(一六二六)龍野藩領、同九年幕府領、同一四年龍野藩領、明暦四年(一六五八)幕府領、寛文一二年(一六七二)龍野藩領となり幕末に至る(「太子町史」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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