盛岡城跡(読み)もりおかじようあと

日本歴史地名大系 「盛岡城跡」の解説

盛岡城跡
もりおかじようあと

[現在地名]盛岡市内丸

中津なかつ川の北岸に位置し、築城当初は城の西側を北上川が南流し、中津川を合流していた。盛岡藩南部氏の居城で、当初は不来方こずかた城ともよばれた。盛岡城下のほぼ中央に位置する。国指定史跡の城跡は現在の内丸うちまる南部を占め、岩手公園として市民の憩の場となっている。

〔築城以前〕

前九年の役ののち、迂志方太郎頼貞(清原武則の舅)が初めて当地に城を築き、鎌倉期には工藤小次郎光家の一族が居住していたという(「大日本地名辞書」「内史略」など)。建武の新政期前後には、南部信長が不来方の南館・北館を拠点に厨川くりやがわ城の工藤光家を攻略、岩手郡司として糠部彦次郎を南館、福士慶善(福士氏は甲斐源氏の出身とされる)を北館に配した(祐清私記)。応永一一年(一四〇四)には福士親行が不来方を南部義政より拝領、不来方殿と号したという(「福士家系図」福士文書)。文禄三年(一五九四)と思われる三月二四日の南部利直書状(八戸鵜飼文書)によれば、福士宮内少輔・淡路ら四名に対し、「不来方沙汰等之事」は四名の談合で決定するよう命じられている。南部領諸城破却書上には「不来方 平城 福士彦三郎持分」とあり、慶長(一五九六―一六一五)以前のものとされる盛岡旧図(盛岡砂子)には、中津川と北上川の合流点には、南から北へ淡路あわじ館・日戸ひのと館・慶善けいぜん館がみえる。このうち淡路館は盛岡城の淡路丸にその名を継承。慶善館は同城修築の際に低地埋立のために丘陵を削られ、内丸の石間いしあいの地となったとされ(南部史要)、寛永城下図では大手門内西側に巨石の描かれる地である。

なお不来方は、文禄五年六月四日の南部信直書状(国統大年譜)などには子次方、「内史略」には古志方とも記される。また福士氏は南部信直に背いて秋田に逃れたが、のち召返されて岩手郡鵜飼うかい(現滝沢村)に一五〇石を与えられ、鵜飼氏を称する。寛文四年(一六六四)の八戸藩分立の際には、鵜飼宮内秀俊が八戸へ移住している(内史略)

〔築城の経過〕

天正一八年(一五九〇)七月二七日に南部信直(盛岡藩初代藩主)は南部内七郡(稗貫・和賀・閉伊・紫波・岩手・鹿角・糠部の各郡とされる)を安堵され(「豊臣秀吉朱印状」盛岡南部文書)、一〇万石を領した(寛政重修諸家譜)。「祐清私記」などによれば、同一九年の九戸政実の乱ののち、浅野長政は伊達氏領の押えとして不来方城を南部氏の居城とすることを説き、信直もその意見を取入れたという。文禄元年信直は朝鮮出兵の際に肥前名護屋なごや(現佐賀県東松浦郡鎮西町)在陣中に豊臣秀吉から築城の許可を得て、世子利直が縄張りを着工したとされる(盛岡砂子)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「盛岡城跡」の解説

もりおかじょうあと【盛岡城跡】


岩手県盛岡市内丸にある城跡。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された盛岡藩南部氏の居城。1590年(天正18)、陸奥国北部を勢力下に置く南部信直(のぶなお)が、天下統一を果たした豊臣秀吉から10万石の所領を安堵(あんど)され、1597年(慶長2)、信直は嫡男の利直(としなお)に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手、慶長年間(1596~1615年)には総石垣の城としてほぼ完成した。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ、現在は朱塗りの橋が架かっているが、築城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が、さらにその北側に三の丸が配された連郭式平山城で、本丸を囲むように腰曲輪(こしぐるわ)、淡路丸、榊山曲輪が配された。本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に建造された御三階櫓(やぐら)が代用とされた。後、1842年(天保13)に12代利済(としただ)によって天守へと改称された。白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。建造物は明治初頭に解体されたため、現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩寺(名須川町)に移築されたとする門が残る。1937年(昭和12)に国の史跡に指定。JR東北新幹線盛岡駅から徒歩約17分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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