日本歴史地名大系 「鶉村」の解説 鶉村うずらむら 岐阜県:岐阜市旧厚見郡地区鶉村[現在地名]岐阜市鶉・北鶉(きたうずら)・中鶉(なかうずら)・西鶉(にしうずら)・南鶉(みなみうずら)・東鶉(ひがしうずら)・六条江東(ろくじようえひがし)三丁目荒田(あらた)川を北境、境(さかい)川を南境とする扇形の平坦地で、東は茜部(あかなべ)村。境川は古くの木曾川筋にあたり、美濃と尾張の国境であったが、広い旧川筋の縁に沿って東鶉・中鶉・西鶉の集落が村域中央部に東西に並ぶ。中世には平田(ひらた)庄鶉郷が一帯に成立していた。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高二千一二七石余、正保郷帳では田一千二一一石余・畑八六七石余・野年貢四八石。江戸時代を通して加納藩領で、家中知行渡方帳(森文書)によれば家臣三一名の給地。 鶉村うずらむら 北海道:檜山支庁厚沢部町鶉村[現在地名]檜山郡厚沢部町鶉町・字共和(きようわ)・字相生(あいおい)・字木間内(きまない)・字社の山(しやのやま)・字旭丘(あさひおか)・字峠下(とうげした)・字新栄(しんえい)近世から明治三九年(一九〇六)までの村。宇津良村(増田家文書)とも記される。俄虫(がむし)村・土橋(つちはし)村の東、厚沢部川支流鶉川流域の沢に立地する。当村は享和元年(一八〇一)俄虫村の勘十郎が移住し杣業・農業に従事したのに始まる。また当村草分の麓長吉は能登国鳳至(ふげし)郡から江差に渡り、万延元年(一八六〇)に村内の木間内に移り開墾したという(明治一九年「青江理事官諮問回答書」市立函館図書館蔵)。 鶉村うずらむら 群馬県:邑楽郡邑楽町鶉村[現在地名]邑楽町鶉中野(なかの)村の東に位置し、東は日向(ひなた)村(現館林市)、南は多々良(たたら)沼と韮(にら)川(現多々良川)を隔てて鶉新田、北は矢場(やば)川を境として下野国梁田(やなだ)郡小曾根(おぞね)村・高松(たかまつ)村(現栃木県足利市)。村中央を太田往還が通る。地名は鎌倉時代、足利義兼が当地で鶉を捕らえさせたことにちなむという伝説がある。「邑楽郡町村誌材料」に「建置慶安年間」とある。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方一石余・畑方三二六石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では二七六石余が幕府領および旗本三家に分給されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by