江戸時代の五街道の一つ。1716年(正徳6)4月、それまで甲州海道とよんでいたものを甲州道中と呼称を改めた。江戸日本橋より甲府(山梨県)を経て信州(長野県)下諏訪宿(しもすわのしゅく)に至り中山道(なかせんどう)に合する。第一宿は下高井土(しもたかいど)宿(東京都杉並区下高井戸)であったが、1698年(元禄11)に内藤新宿(ないとうしんじゅく)(東京都新宿区)が設けられてからは、同宿が、1718年(享保3)10月から1772年(明和9)4月まで廃止されていた間を除き、第一宿となった。下諏訪宿の一つ前の上諏訪宿がこの街道の最終の宿駅であるが、ここまで日本橋から52里13町余(約205キロメートル)、宿数は45宿である。45宿のうちには数宿で宿継ぎをするものがあるために、継ぎ合いは32次である。各宿の常備人馬は25人、25疋(ひき)であった。
参勤交代で甲州道中を利用した大名は、信州諏訪の高島藩と、伊那(いな)の高遠(たかとお)藩、飯田(いいだ)藩の3藩であるが、他の藩が臨時にこの街道を通行したこともある。近世中期までは将軍家御用の茶を運ぶ御茶壺(おちゃつぼ)道中もこの街道を利用した。1724年(享保9)甲州が幕府直轄地となってからは甲府勤番の武士もこの道を往来するようになった。近世後期になると信州・甲州の農村から産物を江戸へ付け出す荷が多くなり、各宿駅は口銭をとってその付通しを許すが、農村と宿駅の間に、その口銭廃止をめぐって争論となったこともある。明治期には東京の神田から武蔵(むさし)府中まで定期馬車が通じたが、のち甲武鉄道(新宿―八王子間、現中央本線)の開通で街道の往来もさびれた。現在は国道20号(東京―塩尻(しおじり))となり、中央自動車道がほぼこれに並行して走っている。
[伊藤好一]
『児玉幸多校訂「甲州道中宿村大概帳」(『近世交通史料集 6』所収・1972・吉川弘文館)』▽『児玉幸多監修『甲州道中分間延絵図』(1978・東京美術)』
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…山国である甲斐は土地利用の進んだ中心部甲府盆地に対して,諸川の扇状地や台地などでは郡内領の谷村大堰や峡北の徳島堰に象徴されるような規模の大きな堰の開削が寛永~寛文期(1624‐73)に集中し,元禄期(1688‐1704)には各地域の一般的農業生産の上に地理的条件にもとづいた特産物生産が展開した。農業生産力の最も豊かな甲府盆地東部の山梨,八代両郡の養蚕業は登せ糸生産として顕著な発展を示し,甲州街道(甲州道中)勝沼宿周辺では特殊果樹としてブドウ生産があった。これに次ぐ巨摩郡中部ではひろく綿作が行われ,両地域を中心に盆地周縁部にはタバコの生産地が点在した。…
…多摩川の支流浅川の谷をのぼって甲州にこえる峠で,北の景信(かげのぶ)山(727m)と南の高尾山(600m)の鞍部にあたる。江戸時代には関東と甲信を結ぶ甲州街道の要所で,江戸の西側山岳防衛線上の要衝として峠の東麓の駒木野におかれた小仏関は,箱根・碓氷両関とともに関東の三関といわれた。しかし,明治に入ると甲州街道は南の高尾山麓大垂水(おおだるみ)峠(389m)経由に変更されたため,小仏峠は時代からとり残された。…
※「甲州街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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