黒田宮村(読み)くろだみやむら

日本歴史地名大系 「黒田宮村」の解説

黒田宮村
くろだみやむら

[現在地名]京北町大字宮

黒田六ヵ村の一。蛇行する大堰おおい川上流に位置する山間集落。東は上黒田かみくろだ村、西は下黒田村で、南北は山地が迫る。通称宮村。

古代は「和名抄」に記す山国やまぐに郷に属し、中世は山国庄枝郷黒田村に含まれる。村内に長和二年(一〇一三)黒田最古の宮野みやの大明神(現春日神社)が建立されたと伝えるが(元禄六年「宮野大明神記録帳」春日神社蔵)、集落の成立時期は不詳。地名は同明神にちなむという。当村の古くよりの有力家の由緒について西家由緒書(無年号、西家文書)は次のように伝える。

<資料は省略されています>

このほか元禄年間の永代書留(西家文書)にも同様の記録があるが、いずれもそのままは信用しがたい。また菅河家は中世以来の名主の家柄であり、同家の由緒書によると、菅原道真の血統であることから菅河と名乗ったというが、史料的には不詳である。

文和五年(一三五六)菅河家の祖先采女貞国が、後光厳天皇より口宣案を下されて中務丞に任じられた(菅河仁一家文書)。その礼として同年三月に、禁裏の「殿下御方蔵人所小舎人廿人」と「殿下御方侍所小舎人十九人」に「饗料腰差酒肴座飯伍百五類」と「饗料腰差酒肴座飯伍百位類」を献上している(同文書)。西家でも応永二年(一三九五)に後小松天皇より采女永国が左近允に任ぜられたほか、永享五年(一四三三)采女国永が左近衛将監に、文明一一年(一四七九)采女貞国が左近允に、明応三年(一四九四)采女貞永が左近允に、天文一九年(一五五〇)采女清貞が左近将監に任ぜられている(西家永代書留)。このような名主の口宣案下賜の事情については、天文一九年四月に宮村長男衆(名主)が禁裏へ官職名所望を申請した西家文書があり、当村内に当時名主層が一一名いたことがわかる。

これらのうち官職名を受領した者がどれだけあったかは不明だが、同年五月付の郷中名主之事(吹上家文書)に山国・黒田と花背はなせ(現京都市左京区)の名主七二名が列記されており、そのうち宮村では内田丹後助友祐・西左近允重春・須川兵衛尉道善の三人があげられている。室町中期までは当村の名主として上野治部・次川(菅河)中務・西左近・坂尻掃部の四氏の名がみえる(西家永代書留)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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