上中野村(読み)かみなかのむら

日本歴史地名大系 「上中野村」の解説

上中野村
かみなかのむら

[現在地名]安佐北区可部かべ中野なかの可部町可部

可部町の西に位置し、古くは下中野村一村であったと思われる。両村の境界は入交じり、「芸藩通志」は地図に境界線を入れていない。中世には可部庄に含まれていたと考えられる。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では五七六・三石、以後漸増し寛永一五年(一六三八)の地詰で六四一・六四三石(郡中国郡志)、正徳四年(一七一四)の地詰で六四八・九一六石になり(同書)、「芸藩通志」も同高を記す。


上中野村
うえなかのむら

[現在地名]愛東町上中野

百済寺ひやくさいじ村の西に位置し、南西下中野しもなかの村。もと中野村で天正九年(一五八一)三月二八日の成田重政等連署済状案(今堀日吉神社文書)に中野之郷とあり、鯰江なまずえとの相論の結論が出されている。天正末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下と推定され、江戸時代初期から幕府領となり、寛永石高帳によれば高三一五石。長谷川氏が代官として在任中に二町九反余を開墾し、高二三石余が増加した(明治五年「村明細帳」上中野共有文書)。この増加した土地に人家を移し、出屋敷と称した。元禄一一年(一六九八)から旗本根来領となり、元禄郷帳によれば高三四〇石余。明治五年(一八七二)の人数は二一二人(村明細帳)


上中野村
かみなかのむら

[現在地名]岡山市上中野一―二丁目・西古松西町にしふるまつにしまち大元おおもと一―二丁目・大元上町おおもとかみまち

東と北を西古松村と接し、西はいま村、南は下中野村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高三五三石余。「備陽記」によると田畑二二町三反余、家数二八・人数一三七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高五八六石余、蔵入と常念寺領および家臣三名の給地。田高三〇六石余・畑高二七石余、家数三七、人数一四〇、牛一三、石関戸一、橋六、肥船四。三七軒のうち三四軒は上伊福かみいふく村の日蓮宗妙林みようりん寺檀家、残りは国富くにとみ村真言宗法輪寺、七日市なのかいち村同宗最城さいじよう院の檀家。


上中野村
かみなかのむら

[現在地名]黒磯市上中野

東は方京ほうきよう村・しま村、南は蛇尾さび川を隔てて東遅沢ひがしおそざわ(現那須郡西那須野町)、西は笹沼ささぬま村。北東部をかすめるようにくま川が流れる。蛇尾川・熊川ともに平常流水がない。地下水も深く飲用水はまいまいず井戸など深い井戸に頼った。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「上中野」とあり、島村と合せて九九石六升(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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