三本木村(読み)さんぼんぎむら

日本歴史地名大系 「三本木村」の解説

三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]三本木町三本木

大松沢おおまつざわ丘陵が鳴瀬なるせ川に迫る所に位置し、東は桑折こおり村、北は南谷地みなみやち村、西はありふくろ村、南は伊賀いが村と接する。鳴瀬川を挟み、右岸はみなみ町、左岸はきた町と称し、両町を寛文元年(一六六一)架けられた三本木橋が結ぶ。村内を奥州街道が通り、南町・北町は宿場町であった。村名について、寛保元年(一七四一)の「封内名蹟志」に「三本榎、三本木村に在り、此地古より三株の榎樹あり、仍て肯山公地名を三本木と号し給ふ」とあり、四代藩主伊達綱村により名付けられたという。「封内風土記」に「老槻三株」とあり、「安永風土記」に「槻木三本」とある。このため三本木駅は別名三株さんしゆ駅とも称し、みもときの里の地名も生じた。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]十和田市三本木・稲生いなおい町・ひがし一番町―東六番町・穂並ほなみ町・西にし一番町―西六番町・西十一番町―西十三番町・西二十二番町

奥州街道を挟み、奥入瀬おいらせ川の北に位置する。三本木原の西の起点である。北は洞内ほらない、西は深持ふかもち、南は伝法寺でんぼうじの各村に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に三本木村、三〇石余とあり、同年の郷村帳によれば三〇・七七二石余のすべてが畑である。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には村名のみがみえる。貞享五年(一六八八)領内一九一ヵ所に立てられた捨馬禁止の高札が当村にも立てられた(御領分高札集)


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]五泉市三本木一―三丁目・粟島あわしま水島みずしま町・三本木

早出はいで川の沿岸にあり、南は五泉町、北は下条しもじよう村に接する。慶長一九年(一六一四)の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では三本木組に属し、正保国絵図には一〇三石余とある。万治二年(一六五九)の三本木町本田畑検地帳(御用書覚帳「五泉郷土史」所収)には畑二六町余、高一四一石二斗余とあり、寛文八年(一六六八)の三本木村永荒申歳改帳(五泉郷土史)によれば、畑四町二反余、高二四石九斗余が永荒となっている。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]上三川町三本木

鬼怒川右岸の低地に位置し、西境の一部を川が南流する。東は鬼怒川を隔てて芳賀はが郡、北は上三川村。近世初めは烏山藩領。慶安郷帳に村名がみえ、田高一七石余・畑高七一石余、幕府領。寛文四年(一六六四)には都賀つが郡の内として久世広之領(寛文朱印留)元禄郷帳では旗本北条領。改革組合村では幕府領と旗本北条の二給で、幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数一五(改革組合村)小金井こがねい宿(現下都賀郡国分寺町)の助郷を勤め、元禄一〇年(一六九七)の助郷高は九五石(「小金井宿助郷帳」坂本重通文書)。当村北方の鬼怒川沿いに河岸が設置され、文化六年(一八〇九)の七河岸議定証文(石川テイ文書)に「三本木川岸佐右衛門」とある。


三本木村
さんぼぎむら

[現在地名]藤岡市三本木

三名さんな川が南境を東流し、東は神田じんだ村、西は高山たかやま村、北は矢場やば村・東平井ひがしひらい村と接する。寛文郷帳では田方八五石七斗余・畑方二〇九石九斗余、幕府領と旗本渡辺領の二給。元禄郷帳では旗本川田領と幕府領の二給。後期の御改革組合村高帳では下野佐野藩領と旗本川田・能勢領の三給、家数四八。元禄一〇年(一六九七)頃には三波川さんばがわ(現多野郡鬼石町)などに酒を売出していた彦市郎がいた(「三波川村請酒商人書上」飯塚文書)


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]田主丸町朝森あさもり

朝帰あさがえり村の南に屋敷地がある。本高は八六石(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一九〇石・役高四六四石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦二二石五斗余・小麦一三石五斗余・菜種九石(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代八斗三升、人数一四四(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四七八石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一町三反余・開田一町一反余・畑田二〇町四反余・畑四町七反余・居屋敷三反余。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]黒磯市三本木

東は練貫ねりぬき(現大田原市)、西は東小屋ひがしこや村、北は山中やまなか新田村。古くは「カウノ宮」(鴻ノ宮か)とよばれたらしい(黒磯市誌)。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に三本木とみえ、一〇一石九斗五升。近世は初め那須藩領、貞享四年(一六八七)から幕府領。奥州街道鍋掛なべかけ宿の助郷村で勤高二四六石(黒磯市誌)。文化七年(一八一〇)山口やまぐち堀が開かれ、村内に六町三反余の水田が開発された(「畑田成用水路備金証文帳」白井方正文書)


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]大垣市三本木町・三本木

東を揖斐いび川が南流し、大垣輪中の東部に位置する。北は万石まんごく村。もと南のおお村の枝郷、室町末期に分郷したという。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高三〇四石余。正保郷帳では田高二七三石余・畑高一〇〇石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高四七一石余。享和三年(一八〇三)の家数四〇・人数一七八(新修大垣市史)。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、高四七九石余、田二四町四反余・畑一〇町七反余、家数四六・人数二一七、馬五、油絞七がおり、用水は北方の大島おおしまかき木戸きどより取水。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]丸岡町三本木・城北じようほく

伏屋ふせや村の南西にあり、枝村として出作があった(越前国名蹟考)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田屋たや村のうちに含まれていた。はつもりのうちの一村(→田屋村。正保郷帳に「伏屋三本木赤坂村」と記される。元禄郷帳でそれぞれ独立記載され、当村は三五七・四八六石であった。福井藩領。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によれば、田一二町五反余・畑一町二反余で、村高のうち二〇〇石が給人渡であった。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]青森市三本木

野内のない川中流北岸、東岳あずまだけ山地を背にし、宮田みやた村の東南にある。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に高一八〇石とある。同四年の検地帳には、田方一六町五反九畝一二歩、畑方二三町二反四畝二〇歩、田畑屋敷合せて三九町八反四畝二歩、村高一九〇・八五六石とあり、畑地が多い。ほかに「場広故不及検地」草山一ヵ所や河原四ヵ所で一三町五反六畝二六歩が記される。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は下である(平山日記)


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]福井市国見くにみ

丹生山地北西部にあって、国見岳北側の山中に源を発する三本木川の中流域の渓谷に位置し、西に川を下ると鮎川あゆかわ浦に至る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一〇九・二五八石。正保郷帳によれば田方三五石余・畠方七三石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となる。「越前地理指南」は枝村として「長尾・経盛・獅子口・小糸・岩谷・長原」をあげるが、「越前国名蹟考」では「経盛」を「常盛」、「小糸」を「小原」と記している。


三本木村
さんぼんぎむら

[現在地名]大治町三本木

東はしん川を隔てて鎌須賀かますか村、南は砂子すなご村に接する。「徇行記」によれば、概高六四二石余はすべて藩士一二人の給知で、田は三〇町二反九畝余、畑は一八町四反七畝余。「寛文覚書」に戸数四二、人数二七六とある。「徇行記」は「此村落ハ間島明眼院ノ道通リニ農屋建ナラヘリ、一村立ノ所ニテ竹木ヨク茂レリ、高ニ準シテ戸口多ク、村中ニテ耕耘ユキトヽケリ、小百姓ハカリニテ持高平均ノ所ナリ」とし、曹洞宗福泉ふくせん寺を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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