龍野城跡(読み)たつのじようあと

日本歴史地名大系 「龍野城跡」の解説

龍野城跡
たつのじようあと

[現在地名]龍野市龍野町北龍野・龍野町上霞城

鶏籠けいろう山に築かれた中世から近世にかけての城郭山頂には室町時代から織豊期にかけての山城遺構が残る。江戸時代は南麓に築かれた平山城が使われていた。鶏籠山は標高二一一メートル、山麓からの比高は約一七〇メートル。東側は揖保いぼ川に接し、城跡からは流域一帯の平野部への眺望がきく。

〔戦国期〕

初代の城主は赤松下野守村秀。以後赤松下野守家の本城となる。村秀は赤松下野守政秀の孫か曾孫と推定されるが、近世には播磨守護赤松政則の実子とする伝承があった(赤松盛衰記)。「播磨鑑」にはこの伝承が反映され、延徳(一四八九―九二)頃に政則が築城したとするが、中世の史料からは確認できない。永正三年(一五〇六)には下野守の本拠は塩屋しおや(現御津町)にあった(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。村秀が龍野城を築くのはそれ以後と推定される。大永五年(一五二五)二月二日、村秀は祖父の命により龍野城中で中務少輔を自害に追込んでいる(鵤庄引付)。この中務少輔は村秀の弟で、那波なば(現相生市)城主の赤松村景とみられる。この当時村景は守護赤松義村と対立する浦上村宗方に属していた。義村方の村秀とは大永元年頃にいかるが庄付近で合戦に及んでいる(三月日「法隆寺年会五師頼憲書状案」法隆寺文書)。下野守家が両派に分裂し、龍野城は西播磨における守護方の拠点となっていた。天文七年(一五三八)尼子晴久が播磨に侵攻すると、村秀は尼子氏に従っている(「天文日記」同八年一二月一一日条)。同九年に村秀が没すると、その子下野守政秀が城主となった。永禄元年(一五五八)八月、政秀は混乱を逃れた守護赤松晴政を龍野城に迎えている(「系図奥書」上月文書)。政秀は元亀元年(一五七〇)に毒殺され(「書写山十地坊過去帳」円教寺旧蔵)、以後城主は広貞・広秀(広英・広通)と続く。弥三郎広貞は天正三年(一五七五)一〇月と翌四年に上洛し、織田信長に臣従している(「信長公記」同三年一〇月二〇日条、一一月二四日「八木豊信書状」吉川家文書、一一月一〇日「織田信長黒印状」広瀬文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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