龍野町(読み)たつのまち

日本歴史地名大系 「龍野町」の解説

龍野町
たつのまち

[現在地名]龍野市龍野町上霞城たつのちようかみかじよう龍野町中霞城たつのちようなかかじよう龍野町下霞城たつのちようしもかじよう龍野町福の神たつのちようふくのかみ龍野町本町たつのちようほんまち龍野町立町たつのちようたてまち龍野町大手たつのちようおおて龍野町柳原たつのちようやなぎはら龍野町門の外たつのちようもんのそと龍野町上川原たつのちようかみかわら龍野町旭町たつのちようあさひまち龍野町水神町たつのちようすいじんちよう龍野町下川原たつのちようしもかわら龍野町川原町たつのちようかわらちよう

江戸時代、鶏籠けいろう山南麓に築かれた龍野城城下町。南から西は山に囲まれ、東から南にかけては揖保いぼ川が流れる。揖西いつさい郡に属する。立野(寛永七年「徳川秀忠領知朱印状」本多家文書など)・館野(「京極家譜」香川県丸亀市立資料館蔵)などとも記された。天正八年(一五八〇)一〇月二八日の羽柴秀吉禁制(龍野町文書)に龍野町とみえ、当町での従来どおりの市立てが許されている。慶長国絵図では揖保川右岸のしろ山の南に龍野町と記され、その西に大慈庵だいじあん村がみえる。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一〇九石余、寛永直し高九〇石余。正保郷帳では揖西郡の町分として田方四三一石余・畑方三六六石余とある。この高は寛永一三年の前掲高辻帳に載る龍野町と大慈庵・龍野町よつヶ町分・同町四郎兵衛分・同町分五郎大夫分・同中河原町分助大夫分の寛永直し高の合計と一致するので、これらが揖西郡の町分として一括されている。元禄郷帳では龍野町の高三一〇石余、ほかに「古ハ町分」と注記される四ヶ町村が別記される。文化一〇年(一八一三)の龍野町書上(龍野文庫蔵)では高一七一石余、うち城地侍屋敷除高八九石余・町方地子八二石余。天保郷帳では高一九〇石余。

〔江戸時代初期〕

慶長五年(一六〇〇)播磨一国が姫路城主池田輝政領となり、当地には一万石の地方知行を受けた池田氏家老荒尾成房が配された(「池田家履歴略記」、慶長一八年「池田輝政侍帳」池田家文庫)。元和三年(一六一七)池田氏が因幡鳥取に移封となると、同年本多政朝が当地に五万石で入封し龍野藩が成立した(「本多家覚書」中根家文書)。寛永三年には小笠原長次が龍野に入封している(「笠系大成」福岡県立豊津高等学校蔵小笠原文庫)。同九年小笠原氏は転封にあたって、龍野町年寄中に宛てて幕使小堀政一・御使番花房正栄・同大久保長重の連名で触書(龍野文庫蔵)を出している。翌年岡部宣勝領となるが、同一三年摂津高槻に転封され幕府領となる。岡部氏は当地に建立した雄心寺を転封とともに高槻に移したという(「岡部家譜」大阪府岸和田市立郷土資料館蔵)。城下町建設の時期は定かではないが、豊臣氏の時代に蜂須賀正勝福島正則木下勝俊小出吉政が次々と龍野城主となっており、この頃城下町として発展したと推測される。

龍野町
たつのまち

[現在地名]姫路市竜野町たつのまち一―六丁目

姫路城の南西にあるくるま門の西方に位置する町人町。山陽道沿いの東西に長い町筋で、東から西へ順に一―六丁目まである。三丁目の通りは各家が道に面してやや斜めに建てられ、のこぎり歯状に見える特色ある町並は今もその痕跡を残している。三丁目から北に向かう道は書写山への間道で、西国巡礼者の往来には六丁目から北行する道が利用され書写道といった(姫路府志)。町名は揖保いぼ郡龍野へ向かう道の龍野口にあたることによるという説、龍野からの移住者による町であるためといった説がある(大正八年刊「姫路市史」)。当町の成立を天正八年(一五八〇)とする説が強い。根拠は、同年一〇月二八日の羽柴秀吉禁制(姫路紀要)に「一 当龍野町市日之事、如先規可罷立事」「一 市之日、諸商人ゑらむへからさる事」「一 同諸公事役、不可在之事」とあり、また六月一九日付の羽柴秀吉条々事書(「利生護国寺文書」紀伊続風土記)の「(英)賀へ直相働(中略)過半町人百姓等をハ助置、姫路山下へ召寄市場を立させ申候事」という記述は、当町のことではないかという推察からである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報