白井 雨山(読み)シライ ウザン

20世紀日本人名事典 「白井 雨山」の解説

白井 雨山
シライ ウザン

明治・大正期の彫刻家 東京美術学校教授



生年
元治1年3月1日(1864年)

没年
昭和3(1928)年3月23日

出生地
伊予国宇和郡鬼ケ窪村(愛媛県)

本名
白井 保次郎

学歴〔年〕
東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)〔明治26年〕卒

経歴
明治14年宇和島南予中学に入学後、松尾馬城に南画を学ぶ。17年小学校訓導となって愛媛県で教鞭を執り、18年上京して東京でも教える。一方、本田錦吉郎に西洋画を、渡辺省亭・望月玉泉に日本画を学び、22年東京美術学校彫刻科に入学、特待生となる。26年卒業して、同年石川県立工業高等学校教諭を経て、31年母校の東京美術学校(のちの東京芸術大学)助教授となり、木彫科のほかに彫塑科を新設してその発展に努める。34年から2年間渡欧してドイツ、フランスに留学。37年帰国して教授となり、大正9年まで就任。彫塑のほか文人画にも優れた。また文展・帝展の審査員として活躍し、北村西望・建畠大夢などの英才を育てた。没後の昭和4年、門下生・建畠大夢作の胸像が母校の庭に建てられた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「白井 雨山」の解説

白井雨山 しらい-うざん

1864-1928 明治-大正時代の彫刻家。
元治(げんじ)元年3月1日生まれ。明治31年母校東京美術学校(現東京芸大)の助教授となり,彫塑(ちょうそ)科を新設してその発展につとめる。37年教授。文人画にもすぐれた。昭和3年3月23日死去。65歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。名は保次郎。別号に真城,晩翠軒など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の白井 雨山の言及

【明治・大正時代美術】より

… 一方,明治美術会には長沼守敬,菊地鋳太郎(1859‐1944),大熊氏広が参加して彫塑部が置かれ,99年には岡倉らの去った東京美術学校に洋風彫塑の課程が置かれた。美術学校彫塑科の初代教授に長沼,まもなくそのあとを藤田文蔵が継ぎ,白井雨山(1864‐1928),渡辺長男(1876‐1952),武石弘三郎(1878‐1963),高村光太郎らが育つ。彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。…

※「白井 雨山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」