中国における文人,士大夫(したいふ)の絵画。職業画家の専門の絵画に対して,儒教や詩文の教養を備えた文人の素人の絵画をいう。中国では書と画において筆墨を共用し,かつ筆法が共通するところから,日ごろ書に親しむ文人が画を手がけやすい傾向にあったが,特に水墨画が流行すると,多くの文人が画筆をとり,これに持ちまえの詩文の要素を加味することによって,世界に例のない教養人としての芸術が生まれた。
この文人画の起源について,単に文人の画という意味で,古く六朝時代の顧愷之(こがいし)や宗炳(そうへい)にまでさかのぼる意見があるが,文人が職業画家との違いをはっきり意識し,独自の芸術を展開したのは北宋以後のことである。蘇軾(そしよく)(東坡)が職業画家を画工と呼び,これと区別して士人画という言葉を用いたように,まず北宋後期の蘇軾の周辺に文人画の動きが現れた。蘇軾は先輩の文同の墨竹を高く称揚し,みずからも簡略な枯木竹石を描いた。こうした墨竹,墨梅など,いわゆる一科の芸としての墨戯は,梅竹蘭などが君子の象徴(四君子)とされていたので,自己の性情を託し表現する手段として宋代文人の間で行われ,他に花光仲仁,揚補之の墨梅,趙孟堅の水仙,王庭筠(おうていいん)(金)の枯木などが有名である。米芾(べいふつ)・米友仁父子の《雲山図》も山水における墨戯といえる。また蘇軾はこれまで画聖とうたわれた唐の呉道玄(道子)を画工とみなし,代わりに唐の詩人王維の絵画を高く評価したが,これは絵画において形似以上に,形をこえた詩趣の表出を尊び,ひいては作者の教養人品を問題としたのである。
このように文人画の基礎は蘇軾の周辺で築かれ,これを先駆けとして,元代以後,さらに広範な本格的な運動へと展開する。元代初期は,職業画家集団の宮廷画院中心であった南宋絵画(院体画)に反発し,趙孟頫(ちようもうふ),銭選,李衎(りかん),高克恭など文人たちの間で,北宋以前に立ち返る復古運動が起こった。しかしその絵画は,彼ら自身が高級官僚を形成したため,文人画的性格に乏しいきらいがあった。ところが元末になると,江南地方に黄公望,呉鎮,倪瓚(げいさん),王蒙の四大家(元末四大家)が現れ,彼らは一時官についた者もいたが,多く隠逸的生活を送り,興の赴くままに山水を描いて,新しい文人画の形式を確立した。それは五代の董源(とうげん),巨然(きよねん)の山水をもとにおのおの独自の様式を創造したもので,詩文と書の美を兼ね備えた自題と相まって,自然の描写というより写意,すなわち自己の胸中にわだかまった意境の表現を目ざしていた。例えば最も代表的な倪瓚の山水画は,近岸にまばらな樹木数本と無人の亭を配し,蕭散体(しようさんたい)と呼ばれる独自の意境を表していた。
この元末四大家の文人画は,明代に入ると文人画の典型として,蘇州を中心に栄えた沈周(しんしゆう),文徴明などの呉派文人画に受け継がれた。しかし明代の初期から中期にかけては,杭州を中心に南宋画院絵画を継承した浙派と呼ぶ職業画家たちがおり,互いに激しく対立した。両者の対立は,結局,呉派から出た明末の董其昌(とうきしよう)の南北宗論によって終止符を打たれ,呉派の圧倒的勝利に終わった。董其昌の南北宗論は実は南宗正統画論であり,中国の絵画を南宗(なんしゆう)と北宗(ほくしゆう)の2様式に分け,李思訓・南宋院体・浙派と続く系譜を北宗,王維・董源・米芾・元末四大家・呉派の系譜を南宗とし,南宗の北宗に対する正統的優位を主張した。そして系譜をみてもわかる通り,南宗正統画は文人画でもあったのである(南宗画,北宗画)。
こうして次の清朝はほとんど文人画一色と化し,四王呉惲(しおうごうん)の南宗正統画派,八大山人,石濤などの遺民画家,金陵派や新安派などの江南都市絵画,あるいは金農,鄭燮(ていしよう)などの揚州八怪が登場した。しかしこの盛況の中で,古画を形式的にまねるだけの倣古主義がはびこったり,売画で生計を立て職業画家と区別がつかなくなるなど,文人画自体も変質した。そのうち文人画本来の写意を尊ぶ伝統は,明末の徐渭(じよい)に始まり,遺民画家,揚州八怪を経て,清末の趙之謙,呉昌碩(ごしようせき)に至る花卉(かき)雑画の画家たちに見いだされる。
執筆者:曾布川 寛
日本において文人画は江戸時代中期以降定着して,一つの有力な流派を形成する。この一群の絵画は南宗画(なんしゆうが),あるいは南画という言葉でも呼びならわされているが,特に〈文人画〉という場合,これにたずさわる人間の本性とその表現のスタイルとに,独特のイメージをもって理解していたように思える。文人の画というのは,もともと中国においては士大夫の画のことであったが,士大夫とは必ずしも地主である必要はなく,まず何よりも儒教の教養を身につけた読書人でなければならなかった。そして,やがてはその儒教的教養を十分に生かし,為政者(官僚)となるべく期待されるような人達であった。いわば絵の世界からいうと素人の人達が描いた絵が,すなわち士大夫の画,文人画ということになるのであるが,日本においては,これら士大夫が描いた絵そのものというよりも,士大夫が本来もっている人間性や人生観,いわばその全体的な人間像に対して共感を抱く人々が手がけた絵画を意味し,文人画としての表現のスタイルには必ずしも拘泥してはいなかった。
しかし,日本の文人画家達のあいだには,表現のスタイルに関し,共通の認識があったように思える。それは,絵画の本質的な生命を〈気韻〉の表現に求めるというものであったが,この気韻なるものは,象形の精巧細密なるところに求められるものではなく,人間の心の中にこそ求めらるべきものであって,技巧の修練によって獲得できるものでもない。したがって,自然の形体の忠実な描写や緊細な線の,形式的な美しさの拘束から解放された,率直な個性的表現が最も重要と考えられ,その直接的な発露として,たとえ粗筆ではあっても簡略な描写が重要な意味あいをもっていたのである。他方,古典的で端正な正統的画風,なかでも特に清潔で瀟洒(しようしや)な白描画風の形式は,教養人にふさわしいものとして根強く文人画家達をひきつけていた。この表現のスタイルは,中国では水墨画を中心とし,逸品画風として独自の発生と展開の歴史をもっているのであるが,それがまた同時に文人画の世界と深くかかわっていた。
日本における文人画家達は,いずれもけっして地主階級の人間ではない。また彼らはさまざまな表現の可能性を求めていたため,ある固定したスタイルに固執していたわけではない。しかし,問題なのは,彼らが少なくとも儒教的教養人に対するたえざる共感を抱いていた点であり,またさまざまな表現は試みていたものの,究極的に求めたのは,画家の心に内在するもの,すなわち心の中に求めらるべき気韻であった。文人画における最も基本的な条件に思いを致すとき,日本の文人画家達も明確に中国文人画の系譜の中に位置づけることができるのである。
日本における初期文人画の代表者であった祇園南海は,紀州藩藩校の教授を務め,儒学の教育・指導につとめたり,藩政のための忠告者であって,儒員としての地位にいた人であり,柳沢淇園は大和郡山藩の為政者として家老の地位につくべき人であった。南海,淇園いずれも儒教的教養をもち,為政者たるべき地位に深くかかわっている人達であったといえる。その意味では士大夫的性格をもった文人と考えてもなんら矛盾するところはなく,この日本における文人の系譜は,浦上玉堂,田能村竹田,渡辺崋山,といった画家達の血の中にも脈々と流れていたと考えられる。他方,同じく初期文人画家の一人である彭城百川(さかきひやくせん)や,日本における文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村などは,その生れや環境からして士大夫的といえるものではなかった。たとえば百川は名古屋の薬種商の生れであるし,大雅は京都銀座役人中村家の手代の子であった可能性が大きく,蕪村は大坂の淀川堤に近い毛馬村の地主の息子であったようである。いずれも士大夫的階級とは縁遠い存在ではあったが,彼らが学ぼうとした画法は,元・明の南宗画や,人間の心の中に宿る〈気韻〉の表出を目ざす水墨画表現が一つの柱となっていたことは事実であるが,同時に彼らが好む絵の主題が文人士大夫その人であったり,あるいはその生き方に対する限りない愛惜の表現であったりした。彼らの根底には,文人士大夫の人間像そのものに対する共感がきわめて強くあったことは事実である。
日本の文人画家達が関心を寄せた中国士大夫画の画技を伝える作品や版本類,あるいは中国文人の人間像の詳細を伝えるさまざまな関係資料は,当時唯一の貿易港であった長崎を通して日本国内に広められた。なかでも長崎を通じて伝えられた絵画現象は,当時の日本の画壇に大きな影響を与えた。17世紀後半には逸然をはじめとし,黄檗(おうばく)の渡来僧をも加えた一派が日本に新たな絵画現象をもたらす。次いで18世紀の前半には沈南蘋(しんなんぴん)(沈銓)や伊孚九(いふきゆう)など,中国からの来舶画人が次々と姿を現し,日本の画壇に決定的な影響を与えていく。これに加えて,オランダからの洋風画技法も紹介された。長崎を窓口として日本に流れ込んださまざまな知識は,享保期(1716-36)を境に新たに発生と展開をみる美術史の流れに,決定的な影響を与えるのであるが,この長崎経由の絵画現象を総称して長崎派と呼ぶならば,日本文人画の発生と展開は長崎派と深くかかわっていたという認識に立たなければならない。
18世紀は,同時に浮世絵や円山四条派という新たな流派の発生をみ,また,琳派もなお健在であった。浮世絵,特に版画は一般庶民の厚い支持を得ていたし,円山四条派は新興町衆によって力強く支えられ,琳派も伝統的に富裕町衆という強力な受容者をかかえていた。こうした状況に対し,文人画の支持層はどういう人たちであったのだろう。たとえば,池大雅の作品に対する一般の評価は必ずしも高かったとはいえない。大雅の弟子であった桑山玉洲は,当時〈異邦の鄙体〉として悪口を言われていた師の作品に対し弁護をしようとしたのであるが,そうした状況をみても,狩野派,土佐派,琳派といった作品が,いわゆる伝統的なものとして一般の支持層には安心感を与え,円山四条派とて,新傾向の絵というよりは,こうした伝統の延長線上に花開いた作品として理解されていたふしがある。こうした状況を考えると,文人画はやはり新奇なもの,革新的なものという認識があり,その受容者は相当に進取の気性に富んだ人たちであったといわなければならない。したがって受容の形態は必ずしも江戸や京,大坂といった消費経済を基盤とした大都市とのつながりが基本となるのではなく,各地の素封家を中心とした文化人のあいだで形成されていく。文人画の支持層,その受容形態が都市中心的ではなく,一般に広い地方性に根ざしているのはそのためである。事実,日本の文人画は,関東,東北から九州まで日本全土に広がっていったのであるが,この広がりは,より精神的,教養主義的であったがための現象であるといえよう。
こうした文人画の精神とその表現形態とは幕末から明治へと受け継がれ,近代絵画史の流れの中で,一つの確たる地位を占めるにいたる。すなわち幕末維新の志士,詩人,書家,学者らは文人画独特の精神主義,教養主義に傾倒し,それを受け継ぐことになる。こうして,明治期前半は文人画も時代の寵児の観を呈していたが,やがてフェノロサの登場によって狩野派,円山派が高く評価される一方,文人画は排斥され,美術学校設立とともに文人画は除外されて,以後衰退の徴候を歴然と表すようになる。その中にあって,富岡鉄斎はその激しい筆墨表現の中に,文人画の伝統をかたくなに守り続けた画家であった。
執筆者:佐々木 丞平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
文人、すなわち士大夫(したいふ)階級を主とする知識人が、自らの娯(たの)しみのために余技的に描いた絵画。描き手の身分によって絵画を分類した概念で、本来は絵画の様式や主題、形式、技法などを規定しないが、中国では明清(みんしん)時代以後、職業画家の絵よりも価値あるものとする見方があり、現在にまで至っている。
書と画はともに筆墨の芸術であることから、書画は同源より分かれた表現形式を異にする芸術という思想も古く、著名な詩人や書家が画筆をとった事例は少なくない。そのもっとも早い例は後漢(ごかん)時代の蔡邕(さいよう)(2世紀後半)までさかのぼるが、文人画家が輩出するのは貴族文化が高度に発達した六朝(りくちょう)時代(3~6世紀)になってからで、書聖王羲之(おうぎし)も画をよくし、『女史箴図(じょししんず)』などの伝称作が現存する顧愷之(こがいし)は異能の士人であった。
五代から北宋(ほくそう)前期に山水画を中心とする水墨技法の大きな発展がみられ、北宋中期(11世紀後半)には絵画の芸術的価値が詩文や書に匹敵するに至った。また、科挙試験の師弟、同門関係などで結び付いた士人グループが形成され、彼らは積極的に絵画制作に関与し、絵画理論にも熱意を示した。すなわち、絵画の第一義を気韻生動(きいんせいどう)に置く六朝以来の画論を発展させ、写意を目的として、蘇軾(そしょく)、文同(ぶんどう)らは枯木竹石をもっぱら描き、墨竹を完成させ、自らの心情を絵画に託した墨戯を行った。それらは多く画面上に画家自身や友人の題賛が書き込まれ、跋(ばつ)が加えられた。このような名家による詩文、書、画の三つが一体となったものを詩書画三絶とよび、中国知識人の理想とする。
また、文人画家は伝統を尊重し、復古主義の立場より、李公麟(りこうりん)は白画(はくが)を復興し、同じく北宋後期の米芾(べいふつ)・米友仁(べいゆうじん)父子は五代の董源(とうげん)の山水画様式を再興した。
南宋時代(1127~1279)は画院画家とよばれる宮廷所属の職業画人の精緻(せいち)な絵画の時代であったが、元代初めの趙孟頫(ちょうもうふ)が復古主義を提唱し、後世の文人画の方向を示し、これを受けて元代末期(14世紀なかば)には黄公望(こうこうぼう)、呉鎮(ごちん)、倪瓚(げいさん)、王蒙(おうもう)の元末四大家が現れ、文人画を様式的に規定した。この時代になると、文人画は山水画と墨竹墨梅などの墨戯に限られるようになる。明代(1368~1644)前半は粗荒な画風の浙派(せっぱ)職業画人の時代であったが、中期にはふたたび沈周(しんしゅう)、文徴明(ぶんちょうめい)らの呉(ご)派文人画家が活躍し、末期には董其昌(とうきしょう)らの文人たちが絵画芸術における自らの正統性を証明するために、強引ともいえる文人画論(文人画の系譜を南宗画として主張し、職業画家の系譜を北宗画として排撃した南北二宗論)を展開した。これが後世に与えた影響はきわめて大きいが、整合性のある理論とはいいがたい。
禅余画家は文人画家とは認めえないし、売画で生活する文人画家も本来ありえないが、清代初めの遺民画家(旧宗室出身の八大山人(はちだいさんじん)、石濤(せきとう)ら)や同中期の揚州八怪(ようしゅうはっかい)などは文人画家として扱われることが多い。
朝鮮でも李朝(りちょう)時代に水墨による文人画が栄えるが、日本の江戸時代の文人画は中国の文人画と異質な点が多く、南画とよぶべきであろう。
[藤田伸也]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
文人が余技に描いた絵画。南宗画(なんしゅうが)(南画)とほぼ同じ概念。中国では士大夫がその中心であったが,日本では職業画家であることが多いため,南画とよぶほうがふさわしいとする意見もある。18世紀初頭,祇園南海・柳沢淇園(きえん)らが「芥子園(かいしえん)画伝」や清明画などを手本として独習し,狩野派などの既成の画派とは異なる,技術よりも精神を尊ぶ新しい画風を紹介した。18世紀後半,池大雅・蕪村らは中国南宗画に日本の絵画様式を融合させて大成した。江戸後期に入り,浦上玉堂・青木木米・田能村竹田らがそれぞれ個性的な画風を展開。一方,江戸では谷文晁・渡辺崋山らが南蘋(なんぴん)派や西洋画を折衷した独特の画風を生みだした。幕末には形式化して「つくね芋山水」という蔑称が生まれたが,明治以降,富岡鉄斎が文人画の伝統を近代的な個性をもって発展させた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
中国の一画風。職業画家の画(院体画)に対立する士大夫(したいふ),文人の画。院体画とともに中国絵画史を貫流する二大流派をなす。文人画の全盛時代は五代,北宋で,文人画とは画家の身分的区別の概念で,本来様式を持たなかった。しかしその後,元末の四大家が出て様式化し,これを南画(南宗画)と呼び,明末に董其昌(とうきしょう)らが出て他派を圧倒した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…後期の美術を主導した民間の絵画の分野では,前述の外来絵画の刺激のもと,宝暦~天明(1751‐89)のころ京都画壇において従来の面目を一新するような新しい動きがあらわれる。池大雅,与謝蕪村らによる南画(文人画),円山応挙による写生画,伊藤若冲,曾我蕭白らによる奇想画がそれである。南画は,中国の文人画の脱俗の理念や南宗画の山水画法とをよりどころにした中国趣味の強い主観主義的画風であり,写生画は,中国,ヨーロッパの写実手法と日本の伝統的な装飾画法の折衷による客観主義的描写であり,奇想画は新奇な個性的表現をねらうなど,それぞれ傾向,主張を異にしながらも経験主義,自我意識の目ざめといった時代の思想傾向を共通の背景としている。…
…この精緻な画風は南宋に継承されたが,時代が下るに従い,形式化して単なる細密画的な作風に堕していった。このような彩色の花鳥画に対し,北宋後半に興った墨戯はまず墨竹に始まり,墨梅,墨蘭と題材を広げていき,文人画の理念と水墨の技法に支えられて,後世大きな発展をみせる分野となった。 宋代の絵画は表現と技法における高い水準と多彩な様式を誇った。…
…精緻な花鳥画の画風は南蘋に直接師事した熊代熊斐(ゆうひ)(1693‐1772)の門下の鶴亭(?‐1785),宋紫石(1716‐80)により近畿や関東に伝わり,江戸後期の画壇に写実主義の風潮がひろまる契機となった。(4)南宗画(文人画)派も伊孚九(いふきゆう),費漢源,江稼圃(こうかほ)らの来日中国画人に負うところが多い。長崎に来航する中国商船の乗員には,当時中国で流行していた南宗画をよくする者が多かったが,当時の日本の画人はまだ中国の南宗画に接する機会が少なく,彼らの影響により,池大雅や与謝蕪村らの日本南画が興った。…
…日本において,南宗画(なんしゆうが),文人画とほぼ同義に用いられてきた語で,明らかに〈南宗画〉をいう言葉の略称であったと思われる。その起源は定かではなく,江戸時代にも用いられた例がなくはないが,特に大正以降,盛んに使われるようになった。…
…南宗画という用語は16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍した松江華亭(現,上海市)の画家,董其昌(とうきしよう),莫是竜(ばくしりゆう),陳継儒において見られる。彼らはみずからを文人画の本流に棹さすものと自負し,その立場から当時の万暦画壇を批判し,独自の絵画史観を展開した。南宗画の基本的な立場は,刻画(細かく輪郭づけて描く)よりも渲染(せんせん)(水墨でぼかす),行家(こうか)(くろうとで匠気をもつ)よりも利家(りか)(しろうとで士気をもつ)というもので,様式的には細密巧緻で濃厚豊麗なものより,簡略粗放で軽淡清雅をよしとし,精神的には技巧に基づく客観主義より文人的教養を伴った人格表現を重視した。…
…南宗画と対をなす概念で,明末万暦(1573‐1619)のころ,董其昌や莫是竜ら華亭(今の上海市)の画家たちによって唱えられたいわゆる尚南貶北の論によって,宮廷画院系の職業画家たちの画が北宗画と呼ばれてけなされたのである。明においては,その前半には宮廷画院系の画が主流を占め,後半には蘇州を中心に成熟してきた市民の絵画,いわゆる呉派文人画が盛んになってきたが,16世紀前半,文徴明の活躍したころから文人画が優勢となり,16世紀の後半から17世紀初頭にかけて,董其昌が活躍したころになると,画といえばほとんどすべて文人画系のものとされるほどになり,あるいは多様化し個性派が輩出し,あるいは通俗化し文人画の職業化も普遍的となった。このような趨勢の中で,董其昌らは一時代前の文徴明と相前後するころ,すなわち文人画と画院系絵画とが拮抗し,あるいは後者がむしろ優勢といったころの職業画家たちを,みずからの呉派文人画に対する浙江の職業画家という意味で一括して浙派と呼んで攻撃目標にした。…
…当時の画院は,武英殿ないし仁智殿にあり,画院画家は直武英殿待詔等の職名をもって,また下級の武官である錦衣衛の官名(指揮,鎮撫,千戸,百戸など)をもって活動した。呉偉が活躍するころになると,その影響のもとに,浙派の画風は河南,湖北,江蘇,安徽等,地域的な広がりを示すのみならず,文人画家にも広がり,その画風も大きく変容していった。すなわち筆墨の粗放性が著しく増す一方で,奇狂な形態や抽象的な墨色対比が追求され,何良俊や高濂らのやや後の文人評論家によって,〈狂態邪学〉と貶評されるに至った。…
※「文人画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新