ジョーダン(読み)じょーだん(英語表記)Louis Jordan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョーダン」の意味・わかりやすい解説

ジョーダン(Louis Jordan)
じょーだん
Louis Jordan
(1908―1975)

アメリカの歌手、アルト・サックス奏者。スモール・コンボによる軽快なブギ・ウギ・スタイル(ジャンプ・ブルースとも呼ばれる)を1940年代に確立、リズム・アンド・ブルースの基礎を固め、来たるべきロックン・ロールへの道を拓いた。

 アーカンソー州の生まれで、父ジム・ジョーダンJim Jordan(1876―1962)はミュージシャンだった。幼いころからラビット・フット・ミンストレル(1900~40年代に活躍した演芸一座)やブルース・シンガー、マー・レイニーMa Rainey(1886―1939)のショーに加わる一方、アーカンソー・バプティスト・カレッジで音楽を専攻する。1932年フィラデルフィアに移り、ピアニストのクラレンス・ウィリアムズClarence Williams(1898―1965)と知り合い、36年にはまだ無名のエラ・フィッツジェラルドが在籍していたチック・ウェッブChick Webb(1909―39)の楽団に参加。38年の暮れにルイ・ジョーダンズ・エルクス・ランデブー・バンド名でデッカ・レコードに初録音。翌年から同レーベルにルイ・ジョーダン&ヒズ・ティンパニーファイブとして、第二次世界大戦後の54年に至るまで継続的に200曲以上にのぼる吹き込みを続けるが、そのうちリズム・アンド・ブルース・チャートに登場した曲は50曲以上あり、1位を獲得した曲が18曲という人気ぶりだった。

 ジョーダンはブギ・ウギ・ピアノやシティ・ブルース、スウィング・ジャズ、ジャイブの要素を統合し、小編成によるシャッフル・ビート(3連符の2番目が休止符になる4ビート)も軽快で陽気な、ユーモラスな都市の音楽、洒脱なボーカルのジャンプ・ブルースを打ち立てた。その人気は黒人のみに留まらず、戦時下のGIたちにも受け入れられ、兵士の娯楽用に作られたVディスク(安価なビニール製のレコード)にも登場した。白人相手のライブも少なくなく、一般的なブルースマンの枠には全く収まらない。ほぼ同時期に活躍したビル・ヘイリーBill Haley(1925―81)の音楽がロックン・ロールの幕開けを告げるものだったとすれば、ロックン・ロール全般に直接的な影響を及ぼしたものこそジョーダンの、「1小節あたり8つのビート」をもつスウィング感/ブギ・ビートを最も完成されたフォームにまとめた音楽だった。また、エンターテインメント性あふれるジョーダンのスウィンギン・ナンバーは、ジタバグ(ジルバ)によるダンスの熱狂も生み、レイ・チャールズ、B・B・キング、チャック・ベリー、ジェームズ・ブラウンといった第二次世界大戦後のリズム・アンド・ブルースの大スターたちに大きな影響を与えた。

 「GIジャイブ」(1944)、「カルドニア」(1945)、「バズ・ミー」「チュー・チュー・チ・ブギ」「エイント・ノーバディ・ヒア・バット・アス・チキンズ」「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」(いずれも1946)、「ビーンズ・アンド・コーンブレッド」「サタデー・ナイト・フィッシュ・フライ」(ともに1949)といった、後年多くのカバーを生んだ曲は、ジョーダンのナンバー・ワン・ヒットの一部である。その音楽の近似性にもかかわらず、全米を席巻したロックン・ロールの波には乗れず、50年代中ごろにはアラディンやマーキュリー、60年代にはレイ・チャールズのレーベル、タンジェリンといったインディー・レーベルに吹き込みを続けた。75年心臓麻痺のためロサンゼルスで死去。ブルースへの理解が広がり、深まった後年になってようやく脚光をあびた。

[日暮泰文]

『Arnold ShawHonkers & Shouters(1978, Collier Books, New York)』『John ChiltonLet the Good Times Roll; The Story of Louis Jordan and His Music(1994, University of Michigan Press, Ann Arbor)』


ジョーダン(Michael Jordan)
じょーだん
Michael Jordan
(1963― )

アメリカのプロバスケットボール選手。2月17日、ニューヨークブルックリンに生まれる。ノース・カロライナ大学卒業。大学在学中の1984年オリンピック・ロサンゼルス大会にアメリカ代表として出場し、チームは金メダルを獲得する。同年NBA(アメリカ・プロバスケットボール協会)シカゴ・ブルズに入団、開幕3戦目の対ミルウォーキー・バックス戦でプロデビュー。ジャンプした後の滞空時間の長さから「AIR(エア)」とよばれる。1984~1985年シーズン新人王。1985~1986年シーズンは開幕3戦目で左足首を骨折、レギュラーシーズンの大半を休んで挑んだプレーオフ1回戦の対ボストン・セルティックス戦2戦目において、1試合63得点というプレーオフ個人最多得点を記録、試合は敗れたものの、対戦したセルティックスのラリー・バードLarry Bird(1956― )に「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」といわしめ、以後「神」とよばれる。1991~1993年のプレーオフ・ファイナルゲーム(7回戦制)ではブルズの3連覇に貢献し、3年連続ファイナルMVPに輝いた。1992年オリンピック・バルセロナ大会にアメリカ代表としてマジック・ジョンソン、ラリー・バードらと出場し金メダルを獲得。1993年10月NBAからの引退を表明。1994年野球に転向するも、1995年3月にはブルズに復帰。1996~1998年のファイナルではふたたびチームを3連覇に導き、同時に3年連続ファイナルMVPとなる。3連覇達成後、二度目の引退を表明したが、2001年10月ワシントン・ウィザーズに復帰。2003年4月、40歳を迎えての14度目のオールスター戦に出場しNBAから引退した。

[編集部]

『ボブ・グリーン著、菊谷匡祐訳『マイケル・ジョーダン物語』(集英社文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョーダン」の意味・わかりやすい解説

ジョーダン
Jordan, Michael

[生]1963.2.17. ニューヨーク,ブルックリン
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。本名 Michael Jeffrey Jordan。バスケットボール史上最高のオールラウンドプレーヤー。並はずれた跳躍力と空中での優雅な動きから「エアージョーダン」のニックネームで呼ばれた。ノースカロライナ州ウィルミントンで少年時代を過ごし,1981年ノースカロライナ大学に入学。 1984年のロサンゼルス・オリンピック競技大会と 1992年のバルセロナ・オリンピック競技大会に出場し,アメリカに金メダルをもたらした。 1984年NBAのシカゴ・ブルズに入団。プロ1年目でリーグ得点王となり,最優秀新人賞を受賞。最優秀選手 MVPに5回選出 (1988,1991,1992,1996,1998) 。 1991~93年ブルズ3連覇ののち,突如引退を表明してプロ野球選手に転身したが,1995年復帰。 1995-96シーズンにはブルズをレギュラーシーズン 72勝 10敗という NBA史上最多勝利に導いた。 1996~98年にかけてブルズは2度目の3連覇を達成し,3年連続でファイナルの MVPに輝いた。 1999年2度目の引退を発表。 2000年ワシントン・ウィザーズの共同オーナーの一人となったが,2001年ウィザーズの選手として復帰。 2003年引退。通算成績は3万 2292得点,1試合平均 30.12得点 (NBA歴代1位) 。

ジョーダン
Jordan, David Starr

[生]1851.9.19. ニューヨーク,ゲーンズビル
[没]1931.9.19. カリフォルニア,スタンフォード
アメリカの教育家,自然科学者,哲学者。コーネル大学,インディアナ医科大学に学び,1879年インディアナ大学動物学教授,85年学長。 91~1913年スタンフォード大学総長。晩年はおもに世界平和のために献身。第1次世界大戦へのアメリカ参戦に反対し,世界連邦主義を提唱。著書は 50冊をこえ,おもなものに『戦争と荒廃』 War and Waste (1914) ,『民主主義と国際連帯』 Democracy and World Relations (19) ,自叙伝『ある男の過ぎし日々』 The Days of a Man (22) などがある。

ジョーダン
Jordan, Sir John

[生]1852. アイルランド
[没]1925
イギリスの外交官。 1876年通訳学生として北京に派遣された。のち駐清国公使館員となり,96年朝鮮に転じ,総領事,代理公使,弁理公使を経て,1906年清国公使となった。中国,朝鮮での長期在勤を利用して北京外交界を牛耳り,辛亥革命の際には,日本の進出に対抗してイギリス権益を擁護するため,袁世凱の政権掌握に尽力した。 20年退官したが,ワシントン会議には出席した。

ジョーダン
Jordan, Dorothea(Dorothy)

[生]1761.11.22. ウォーターフォード近郊
[没]1816.7.3. サンクルー
アイルランドの女優。本名 Bland。ダブリンで初舞台,のちにロンドンに渡り,ドルアリー・レーン劇場でシドンズ夫人に次ぐ人気女優として活躍。また,クラレンス公 (のちのウィリアム4世 ) との間に 10人の子をもうけるが,正式な結婚とはならず,1815年フランスへ移って晩年を過した。

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百科事典マイペディア 「ジョーダン」の意味・わかりやすい解説

ジョーダン

米国のプロ・バスケットボール選手。ニューヨークのブルックリン生れ。少年時代からバスケットボールや野球に親しみ,ノース・カロライナ大学時代の1982年,バスケット全米大学選手権で優勝。1984年,米プロバスケットボール協会(NBA)のシカゴ・ブルズに入団。1985年のNBA新人王獲得以来,1998年までの間に1991年−1993年,1996年−1998年の2回にわたってチームを三連覇に導く(1993年−1995年一時引退して大リーグ野球に挑戦)。リーグ最優秀選手賞5回,得点王10回(史上最多)。〈バスケットの神様〉と呼ばれ,プロバスケットボールの人気を高めた。1999年初頭,引退を表明。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ジョーダン」の解説

ジョーダン Jordan, David Starr

1851-1931 アメリカの魚類学者。
1851年1月19日生まれ。バトラー大教授,インディアナ大総長,スタンフォード大総長などを歴任。明治29年(1896)をはじめに2度来日,日本産魚類の研究に従事した。1931年9月19日死去。80歳。ニューヨーク州出身。コーネル大卒。

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367日誕生日大事典 「ジョーダン」の解説

ジョーダン

生年月日:1851年1月19日
アメリカの教育家
1931年没

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