日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリスターノ」の意味・わかりやすい解説
トリスターノ
とりすたーの
Lennie Tristano
(1919―1978)
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。シカゴに生まれる。本名レオナルド・ジョセフ・トリスターノLeonardo Joseph Tristano。生まれつき弱視で9歳ごろ失明。幼児期からクラリネット、アルト・サックス、テナー・サックス、ギター、トランペット、ドラムを習得し、シカゴにある1886年創立の音楽学校アメリカン・コンサーバトリー・オブ・ミュージックでは驚異的速さで和声法を習得する。12歳でピアノ奏者として仕事をするが、楽器をピアノに絞ったのは20歳を過ぎてからで、10代のころはさまざまな楽器を演奏できる能力を生かし、ディキシー・バンド、ルンバ・バンドなどを経験する。彼が青年期に影響を受けたジャズ・ミュージシャンは多岐にわたり、トランペット奏者ロイ・エルドリッジRoy Eldridge(1911―1989)、テナー・サックス奏者レスター・ヤング、ギター奏者チャーリー・クリスチャンなどのほか、ピアノ奏者ではアール・ハインズEarl Hines(1903―1983)、テディ・ウィルソンTeddy Wilson(1912―1986)がいる。
1946年ニューヨークに移り、ギター奏者ビリー・バウアーBilly Bauer(1915―2005)とコンボを組むかたわら、当時勃興しつつあった黒人ミュージシャンによる熱狂的な音楽ビ・バップに対抗すべく、白人の側から独自の音楽理論構築に励み、いわゆる「トリスターノ楽派」とよばれる一大勢力を築く。彼らの音楽は即興性追求という点ではビ・バップと変わらないが、独特のメロディ・ラインが水平線のように連なる様子が、聴き手に抑制的でクールな印象を与えたため、クール・ジャズとよばれた。1947年その成果を発揮すべくビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーと共演し、この模様がパーカーのアルバム『アンスロポロジー』に記録される。1949年「トリスターノ楽派」の高弟、アルト・サックス奏者リー・コニッツの誘いにより、プレスティッジ・レーベル創業第一作を吹き込むが、同作は後にリーダー名がコニッツに変えられ『サブコンシャス・リー』(1949~1950)となる。同年キャピトル・レコードにコニッツ、テナー・サックス奏者ウォーン・マーシュWarne Marsh(1927―1987)、バウアーら弟子たちを率いたセクステットの録音を行い、楽派の結束の強さを示す。この演奏は『インチュイション』IntuitionというタイトルでCD化されている。
1950年代はビ・バップを発展、洗練させたハード・バップがジャズ・シーンの主流を占めるようになり、クール派のトリスターノはあまり注目されることはなかったが、1965年ベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演して反響をよび、1969年ふたたび招かれセロニアス・モンク、セシル・テーラーらと共演する。晩年はもっぱら自らの音楽理論探求と門下生の指導に精力を注ぎ、死後門下生により「トリスターノ・ジャズ財団」が設立された。そのほかの代表作には1955年録音『鬼才トリスターノ』、1958~1962年録音『ニュー・トリスターノ』がある。彼の音楽は極めて禁欲的で厳しい表情をもっており大衆的人気はないが、その音楽表現の深さはジャズ・ピアノに大きな影響を残した。一例をあげればビル・エバンズの初期の演奏にはトリスターノの痕跡がみられる。また「トリスターノ楽派」の存在意義も大きく、白人による理知的なジャズの可能性は、彼らに負うところが大きい。
[後藤雅洋]