デジタル大辞泉
「ボニファシオ」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ボニファシオ
Andres Bonifacio
生没年:1863-97
フィリピン革命の最大の指導者。マニラの下町トンドの貧しい家庭に長子として生まれ,14歳で両親に死別したので,少年時より生計の苦労を味わった。しかし明敏だったので,やがてイギリス商会ついでドイツ商会の職員になり,仕事のかたわら独学でスペイン語をマスターして,当時マニラに流入したヨーロッパ文学や自由主義思想,フランス革命に関する文献などに接する機会を得た。1880年代に入ってスペイン支配の改革を求めるプロパガンダ運動が始まると,率先してこれに参加したが,知識人中心の言論活動の不毛さに失望して,92年7月同志とともに武装革命をめざす秘密結社カティプーナンを結成,95年にその第3代総裁となり,96年8月フィリピン革命を開始した。しかし闘争の過程でアギナルドの率いるカビテ州のプリンシパリーア階層との間に指導権争いを生じ,これに敗れて,97年5月10日アギナルド革命政府の手で処刑された。
執筆者:池端 雪浦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ボニファシオ(José Bonifácio de Andrada e Silva)
ぼにふぁしお
José Bonifácio de Andrada e Silva
(1763―1838)
ブラジルの政治家、作家、科学者。通称ジョゼ・ボニファシオ。サントスで生まれる。1783年から4年間ポルトガルのコインブラ大学で自然科学を学んだ。王立リスボン科学アカデミア会員に選ばれ、90年から10年間ヨーロッパ各地で地質学、冶金(やきん)学を学んだのちポルトガルに戻り、コインブラ大学の初代冶金学教授、鉱業局長などに就任した。ナポレオン軍とも戦った。1819年ブラジルに帰国して独立の推進者となったため「独立の元勲」Patriarca da Independênciaとよばれた。23年皇帝ペドロ1世と対立し、フランスに追放されたが、29年帰国し、31年退位するペドロ1世により王子(ペドロ2世)の後見役に任じられた。
[山田睦男]
ボニファシオ(Andres Bonifacio)
ぼにふぁしお
Andres Bonifacio
(1863―1897)
フィリピン革命の指導者。マニラの下町トンドの貧しい家庭に生まれた。外国商会の雇員として働きつつ、スペイン語や自由主義思想などを独習。スペイン支配の改革運動に参加したが、これに失望して、1892年7月秘密結社カティプーナンを結成、1896年8月武装革命を開始した。しかし闘争過程でアギナルドらカビテ州有産階級との間に指導権争いが生じ、これに敗れて、1897年5月10日処刑された。
[池端雪浦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ボニファシオ
Bonifacio de Andrada e Silva, José
[生]1763.6.13. サントス
[没]1838.4.6. ニテロイ
ブラジルの政治家,独立運動の指導者。ポルトガルのコインブラ大学を卒業後,同大学地質学教授。 1819年祖国に戻り独立派の領袖となった。 22年ドン・ペドロ (のちのペドロ1世 ) に独立を建言,9月7日の独立宣言の直接的契機をつくった。独立後首相として難局を処理したが,皇帝ペドロ1世と合わずフランスに亡命 (1823~29) 。 31年皇太子 (のちのペドロ2世) の後見役に任じられたが,33年ペドロ1世の復位をはかり失脚した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ボニファシオ
Andres Bonifacio
1863〜97
フィリピン独立運動の指導者
1892年7月,秘密結社カティプーナンを結成,武装革命をめざし,93年に第3代総裁となった。しかし,1896年に始まる武装闘争の過程で指導権争いに敗れ,97年にアギナルドの革命政府によって処刑された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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ボニファシオ
生年月日:1863年11月30日
フィリピンの民族運動家
1897年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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