極東選手権競技大会(読み)きょくとうせんしゅけんきょうぎたいかい

改訂新版 世界大百科事典 「極東選手権競技大会」の意味・わかりやすい解説

極東選手権競技大会 (きょくとうせんしゅけんきょうぎたいかい)

アジア競技大会前身ともいうべき大会。フィリピン体育協会のアメリカ人E.S.ブラウンの提唱によって,1913年マニラのカーニバルを機会に第1回大会を開き,34年の第10回大会まで続いた。参加国は,フィリピン,中国,日本が中心で開催地も3ヵ国の持回り,インドとオランダ領東インドが1回ずつ特別参加した。第2回大会までは東洋オリンピックあるいは極東オリンピックと一般に呼ばれていたが,第3回大会から改名された。競技は陸上水泳テニスバレーボールバスケットボール,サッカー,野球の7種目(多少の変動あり)を争う男子のみの国別対抗形式で,10回の大会のうち日本5,フィリピン4,中国が1回優勝した。当時のアジアにおける最高の国際競技会だったため,織田幹雄南部忠平鶴田義行,清川正二らの五輪金メダリストや野球の水原茂,若林忠志ら名選手が活躍した。最後満州国の参加をめぐって日本と中国が対立,中国が退会して消滅した。
アジア競技大会
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「極東選手権競技大会」の意味・わかりやすい解説

極東選手権競技大会
きょくとうせんしゅけんきょうぎたいかい
The Far Eastern Championship Games

1913年から34年まで、極東体育協会の主催で10回実施された競技会。現在のアジア競技大会の前身ともいうべき大会。第5回大会(1921)から国際オリンピック委員会(IOC)による最初の公認地域大会となった。アメリカのYMCAからフィリピンに派遣されていたE・S・ブラウンの提唱により始まり、極東諸国のスポーツの振興、オリンピック参加の準備、国際親善を目的とした。大会は、当初は2年ごと、第8回(1927)からはオリンピックの中間年に、フィリピン、中国、日本の3か国を順次開催地として開かれた。1934年(昭和9)マニラ大会期間中、「満州国」参加に関する憲章改正問題で日中が激しく対立、中国側委員の総退場という事態になり、極東体育協会および極東選手権競技大会は解消する。日本はフィリピンとともに東洋体育協会を設立、1938年東京、42年マニラで東洋選手権大会を予定したが、両大会とも戦争のために中止となった。

鈴木良徳

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「極東選手権競技大会」の意味・わかりやすい解説

極東選手権競技大会
きょくとうせんしゅけんきょうぎたいかい
Far East Championships

1913年から 1934年まで極東諸国のスポーツ向上と,国際親善を目的に開催された国際競技会。西アジア競技大会とともに,アジア競技大会の前身となった。 1910年に創設された極東体育協会の提唱で始められ,1913年のマニラ大会を第1回とし,中国,日本,フィリピンの3ヵ国が順に開催国となり,1927年の第8回まで隔年,1930年に第9回,1934年に第 10回が開かれたのを最後に,国際情勢の悪化をうけ消滅した。

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