昭和・平成期の三段跳び選手,スポーツ評論家 日本陸上競技連盟名誉会長。
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陸上競技選手。広島県出身。広島一中から広島高等師範学校に進み,1923年大阪で開催の第6回極東選手権競技大会に初めて日本代表選手として出場,走幅跳びと三段跳びに優勝して脚光を浴びる。24年パリで開催の第8回オリンピック大会で,三段跳び6位入賞(14m35),日本の陸上選手で最初の入賞者となる。25年早稲田大学入学,28年アムステルダムで開催の第9回オリンピック大会で三段跳びに優勝(15m21),日本最初の金メダリストになる。31年早大卒業,朝日新聞社に入社,その年三段跳びに15m58という当時の世界新記録を作った。その後勤務のかたわら後進の指導に当たり,早大教授,国際陸上競技連盟技術委員などを歴任,79年IOC(国際オリンピック委員会)のオリンピック功労章を受章した。
執筆者:川本 信正
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日本の代表的陸上競技選手。広島に生まれ、早稲田(わせだ)大学卒業。在学時代、南部忠平、沖田芳夫(よしお)らとともに早大陸上競技部の黄金時代を築いた。1924年(大正13)走幅跳びで7.04メートルを跳び、日本初の7メートル台を記録した。同年のオリンピック・パリ大会三段跳びで6位入賞、28年(昭和3)のオリンピック・アムステルダム大会三段跳びで15.21メートルで日本人として初めてオリンピックの金メダルを得た。31年には15.58メートルの当時世界新記録をつくり、三段跳び王国日本の先駆者となった。専門外の投擲(とうてき)、短距離にも強く、24年から3年間十種競技の日本記録(6062点)を保持。朝日新聞本社運動部長退任後、早稲田大学教授、国際陸連技術委員を歴任。東京オリンピックでは陸上競技の選手強化委員長を務めた。日本陸上競技連盟名誉会長。88年文化功労者。
[石井恒男]
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…女子水泳はすでにストックホルム大会から行われていたが,女子陸上競技が採用されたことで,女子スポーツの将来に新しい展望が開かれた。この大会で日本の織田幹雄が三段跳び,鶴田義行が200m平泳ぎでそれぞれ優勝して日本で初めての金メダリストになり,また女子陸上800mでは人見絹枝が2位に入賞した。32年,ロサンゼルス(アメリカ)で開かれた第10回大会では,オリンピック史上初めて10万人収容の大競技場が建設され,36年の第11回大会に提供されたベルリン競技場の施設とともに,大会施設の巨大化に端を開いた。…
…トロフィーも,大正中期ごろから工芸家らによって習作的に作られていたらしい。そのほか第2次大戦前のものとしては,アムステルダムでの第9回オリンピック大会(1928)での織田幹雄の三段跳びの優勝を記念して,織田のユニフォーム姿の立像のトロフィー(彫像・朝倉文夫,鋳造・日名子実三)が製作されたのが有名である。 戦後,1952年から進駐軍向けにトロフィーの製造を業として開始したが,やがてボウリングやゴルフのブームとともに,トロフィーの需要が急増し,製造者も続出した。…
…13年には第1回の日本陸上競技選手権大会が開かれた。 1924年のパリ・オリンピック大会では織田幹雄が三段跳びで6位に初入賞。25年には日本陸上競技連盟が創設され,28年のアムステルダム・オリンピック大会では織田が三段跳びで待望の金メダルを獲得,陸上競技は黄金時代に入っていった。…
※「織田幹雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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