手足を使って、水面、水中、水底を自由に進んだり、停止したりすること、すなわち泳ぐことをいう。江戸時代には水練ともよばれたが、今日では、遊泳(游泳(ゆうえい))あるいはスイミングswimmingなどともよばれている。
オリンピックの水泳競技としては、競泳のほか、飛込、水球(ウォーター・ポロ)、アーティスティックスイミング(世界では2017年に、日本では2018年にシンクロナイズドスイミングから名称変更)およびオープンウォータースイミング(OWS)の5種類がある。国際水泳連盟(FINA:Fédération Internationale de Natation)の競技としてはこれらに加えてハイダイビングがあり、日本には日本泳法がある。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
魚やクジラ、カエルなどはいうまでもなく、馬、犬などの哺乳類(ほにゅうるい)も生まれながらにして泳げるのに対し、ヒトは特別に習わなければ泳げない動物である。それがいつごろから泳ぐようになったかは明らかでないが、人間は生活上の必要から自然発生的に泳ぎの技術を覚えていったものと考えられる。たとえば、生活の糧を得るために、川、海などで魚貝類を捕獲する機会や、衛生のための水浴・洗身、宗教的信仰のための水浴などの機会が水泳の始まりであったと考えられる。やがて、人間は水の浮力の存在を知り、浮力を利用して泳ぐ技術を開発していったものと想像できる。水泳に関する世界最古の遺物は、西南アジアにあった古代王国アッシリアの旧地から発掘されたといわれるレリーフで、そこには兵士がクロールに似た泳ぎで川を渡っているところが描かれている。また、古くから水泳が尊重されていたことは、古代ギリシア・ローマ時代の教育的な身体訓練で水泳が重要な教科とされていたことでもわかる。とくにローマ時代にあっては、文化人の条件として、文字を知り、学問ができることと同様に、水泳ができることが必要とされた。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
水泳に必要な手足の使い方のくふうとその発展は、足よりもまず手が先であったと考えられる。両手で同時に水をかくことから始まり、左右の手を交互に使って水をかくことは、その後に考案された。さらに水をかいた手を水面上に抜き上げるという高等技術は、それよりかなり遅れて考案されたと思われる。次に足の使い方については、もっとも原始的で単純なものは、水を後ろ下方に強く(足の裏で)押すことである。両足で同時に水を後方に押しやったとき、もっとも原始的な泳ぎの形ができたものと想像される。ついで、左右の手で交互に水をかき、左右の足で水をばたばたと打つ泳ぎ、すなわち「犬かき」が出現した。さらに両足の使い方が洗練されて「蛙股(かえるまた)」が考案された。蛙股は、文字どおりカエルの泳ぎに似た足の使い方で、両足を左右に開いてから勢いよく水を挟んで推進力を得る方法である。この蛙股と、両手で水を左右にかき分ける泳ぎが、平泳ぎの発明へとつながった。
平泳ぎは泳ぎの巧緻(こうち)性(巧みさ)と持久性が優れているから、生活用からみても軍事用としても水泳の価値を高め、やがて長い距離を泳ぎ続けること(遠泳)や、一定の距離を速く泳ぐこと(競泳)のために用いられた。ついで、あおり足(両足をからだの前後に開き、前足の足裏と後ろ足の甲とで挟むように水を蹴る動作)を用いた横泳ぎが発明された。これは、平泳ぎが前向きで水の抵抗が大きいため、上体を斜め横向きにして抵抗を減らし、泳スピードをあげる試みとして考案された。
その後、横泳ぎは水をかいた腕を水上でリカバリーする(前方に戻す)イギリス式横抜き手を経て、近代的な競泳泳法であるクロールに移っていく。1870年代初頭、イギリスのジョン・アーサー・トラジオンJohn Arthur Trudgen(1852―1902)は、アルゼンチンを旅行中、先住民からクロールを習い、それをバタ足ではなく、あおり足を用いた独自のクロールにアレンジしてイギリスで紹介した。はじめに普及したのは、このトラジオン・ストロークである。その後の近代クロールは、1879年にイギリスからオーストラリアに移住した水泳コーチ、フレデリック・カビルFrederick Cavill(1839―1927)の一家によって広められていった。フレデリックと6人の息子たちは全員が優秀な水泳選手で、シドニーでアレック・ウィッカムAlick Wickhamという先住民の若者の泳ぎを見てバタ足によるクロールを覚えた。六男のリッチモンド・テオフィロス・カビルRichmond Theophilus Cavill(1884―1938)は、1899年の国内大会で初めてこのクロールを披露し、1902年にはイギリス本国で行われた国際競技会にクロールで出場して、100ヤード(約91メートル)に58秒6の世界新記録で優勝した。翌1903年には、五男のシドニー・カビルSydney Cavill(1881―1945)がアメリカに招かれ、そこでオーストラリアンクロールがアメリカにも伝えられることになった。アメリカのチャールズ・ダニエルスCharles Daniels(1885―1973)は、6ビートキックのアメリカンクロールを確立し、第3回オリンピック・セントルイス大会(1904)で2種目を制覇し、続く第4回ロンドン大会(1908)では100メートルの連続優勝を遂げた。ダニエルスは後年『スピード・スイミング』を著した。この著書は日本の草創期の競技選手たちに競泳指導書としての役割を果たした。オーストラリアからアメリカ本土へと競技の主導力が移っている間に、ハワイを中心として先住民から生まれた水泳は、そこから世界一のデューク・カハナモクDuke Kahanamoku(1890―1968)を生み出すことになった。カハナモクは1912年の第5回ストックホルム大会、1920年の第7回アントワープ大会の100メートルに優勝した。しかし、クロール泳法を完成させたのは、のちに映画俳優となりターザン役で名を売ったワイズミューラーJohnny Weissmuller(1904―1984)で、1922年に100メートルで1分を切る57秒4の世界記録を樹立し、1924年の第8回パリ大会、1928年の第9回アムステルダム大会を通じて5個の金メダル(リレーを含む)を獲得した。この間、泳法の急速な進歩には目覚ましいものがあった。
クロール泳法が考案される前には、背泳ぎは、あおむけで平泳ぎのキックをしながら両手を同時にかく泳ぎであった。いわゆるエレメンタリー・バックストロークであり、この泳ぎは浮きやすく、呼吸も容易なので現在でも初心者の水泳指導で用いられている。その後、背泳ぎはクロールを裏返した現在の泳ぎになっていった。オリンピックでは1900年の第2回パリ大会から採用された。
バタフライは1930年ごろから平泳ぎ種目のなかで開発され、初期には平泳ぎのキックを用いていた。その後ドルフィンキックに代わり、1ビートキックの泳ぎを経て、現在の2ビートキックの泳ぎになった。平泳ぎから独立して正式種目となったのは、1953年(日本では1954年)のことである。オリンピックでは、1956年のメルボルン大会から採用された。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
日本における水泳は、実用のため軍事目的として発展したもので、庶民階級にあっては生活のため、武士階級にあっては武芸の一つに数えられ、いわゆる武芸十八般のなかにも加えられていた。徳川8代将軍吉宗(よしむね)らがとくに水泳訓練を奨励した事績は多く伝えられ、また、幕末の講武所においても他の武術と同様に扱われていた。これが日本泳法として現在に至っているものである。一方、水泳が競泳の形をとって行われるようになったのは、明治末期から大正初期にかけてのことで、1914年(大正3)に日本選手権の前身である全国競泳大会が行われた。さらに欧米と同じ近代的泳法を採用した競泳は、大正末期から昭和初期に台頭したものである。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
日本泳法の伝承によって、現在でも日本には、外国に例をみないほど数多くの泳法がある。たとえば、横泳ぎだけでも10種以上あり、日本水泳連盟(JASF:Japan Swimming Federation)が公認する12流派の競技種目の泳形は123種に達する。そのため競技会では、泳ぎの採点がスムーズにできるように種目を分類し、進行方向に対する身体の向きと体軸の角度によって平体、横体、立体の三つに区分している。これによって同じ体形区分での評価が可能となる。日本泳法の競技大会は1956年(昭和31)から日本泳法大会として実施されるようになった。
現在、日本水泳連盟で公認している12流派は次のとおりである。
神統(しんとう)流(鹿児島県)、小堀(こぼり)流踏水術(熊本県)、山内(やまのうち)流(大分県臼杵(うすき))、神伝(しんでん)流(愛媛県松山)、水任(すいにん)流(香川県高松)、岩倉(いわくら)流(和歌山県)、能島(のしま)流(和歌山県)、小池(こいけ)流(和歌山県)、観海(かんかい)流(三重県津)、向井(むかい)流(東京)、水府(すいふ)流水術(茨城県水戸)、水府流太田(おおた)派(東京)である。
これらの流派のうち、伝統の古さに従えば、神伝流を最古とし、明治10年代に生まれた水府流太田派を除いては、その多くは江戸時代に起源をもっている。その流派のいわれは、ほぼ次の四つに分けることができる。
(1)流派を創始した人の名に由来するもの 向井流、水府流太田派、小池流、岩倉流、小堀流踏水術、山内流。
(2)発祥地の地名に由来するもの 水府流、能島流。
(3)流派修練の目標を示すもの 観海流、水任流。
(4)流派の尊厳無比を表明するもの 神伝流、神統流。
日本泳法の出現・発案は、実用のため、軍事目的のために生まれたものとみるのが正しく、流水を横切る泳ぎ方、長距離を泳ぎ切る泳ぎ方、物体を持ったり水面上でいろいろの仕事をするのに便利な泳ぎ方など、各種の条件に即してくふうされたものである。のち時代が進むにつれて実用性に加えて、美しく巧みに泳ぐという技術的なものが加えられるようになった。現在このような形式美を備えた泳法は、日本泳法の最大の特長として世界に冠たるものとなっている。各流派の泳ぎ方を通じてみると、一流派独得のものもあれば、他の流派と似たもの、あるいは同名異種、異名同種のものもある。代表的な泳ぎ方としては、一重伸(ひとえのし)、二重伸(ふたえのし)、片抜手(かたぬきて)、大抜手、小抜手、諸抜手(もろぬきて)、手足搦(しゅそくがらみ/てあしがらみ)、水書(すいしょ)、浮身(うきみ)(各種の形がある)などがある。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
日本の水泳チームが初めてオリンピック大会に参加したのは、1920年(大正9)第7回アントワープ大会で、同大会には、内田正練(まさよし)(1898―1945)、斉藤兼吉(かねきち)(1895―1960)の両選手が出場したが、長距離をクロールで泳ぎ通す外国選手の強さに驚かされた。第8回パリ大会(1924)には、高石勝男(かつお)(1906―1966)をはじめ6名が参加した。高石は個人種目の100メートル、1500メートル自由形でそれぞれ5位に入賞、800メートルリレーでも4位に入賞して、日本の水泳に希望の火がともされた。次の第9回アムステルダム大会(1928)までの期間は日本水泳連盟の草創期にあたり、極東大会、日布(ハワイ)水上、全米水上など外国との交流が盛んに行われた。
アムステルダム大会では、200メートル平泳ぎで鶴田義行(つるたよしゆき)(1903―1986)が日本人として初めて優勝、800メートルリレーでも2位に入り、このほか高石らの活躍もあって、日本の水泳の力が世界的なレベルにあることを実証した。同年国際水泳連盟に加盟。1931年(昭和6)第1回日米対抗が行われ、翌1932年の第10回ロサンゼルス大会への布石となった。この成果が実り、ロサンゼルス大会では、100メートル自由形で宮崎康二(やすじ)(1916―1989)、1500メートル自由形で北村久寿雄(くすお)(1917―1996)、200メートル平泳ぎで鶴田、100メートル背泳ぎで清川正二(まさじ)(1913―1999)がそれぞれ優勝、それに800メートルリレーの優勝とあわせ、男子6種目中5種目を制した。また鶴田のオリンピック2連勝、宮崎、北村、牧野正蔵(しょうぞう)(1915―1987)、小池礼三(れいぞう)(1915―1998)らティーンエイジャーの活躍などで、水の王者であったアメリカにかわって、一躍水泳日本の黄金時代を迎えた。次の第11回ベルリン大会(1936)では、1500メートル自由形で寺田登(1917―1986)、200メートル平泳ぎで葉室(はむろ)鉄夫(1917―2005)、それに800メートルリレーと3種目に優勝、女子では200メートル平泳ぎに前畑秀子(まえはたひでこ)が日本女子として初優勝した。このレースの「前畑がんばれ」の名放送はいまも語り継がれている。
第二次世界大戦後は、古橋広之進(ふるはしひろのしん)、橋爪四郎(はしづめしろう)(1928―2023)らが国内での自由形中・長距離レースで数々の世界記録を樹立し、国際水泳界の注目を集めた。しかし国際水泳連盟から資格停止となっていた日本水泳連盟は1948年の第14回ロンドン大会への出場は許可されなかった。翌1949年に国際水泳連盟へ復帰し、全米男子屋外水上選手権大会(ロサンゼルス)に古橋ら6名が出場、数多くの世界記録を樹立してアメリカ勢を圧倒した。しかし1952年、戦後初参加が許された第15回ヘルシンキ大会では、優勝種目はゼロ(銀メダル3個)に終わった。1956年の第16回メルボルン大会で古川勝(まさる)(1936―1993)が200メートル平泳ぎに潜水泳法で優勝(銀4)したほかは、続いて行われたローマ(銀3、銅2)、東京(銅1)、メキシコ(メダルなし)の各大会とも優勝種目はなかった。1972年の第20回ミュンヘン大会では男子の100メートル平泳ぎで田口信教(のぶたか)(1951― )、女子100メートルバタフライで青木まゆみ(1953― )がそれぞれ優勝し(金2、銅1)、日本水泳界に明るい成果がもたらされた。その後の2大会ではメダルを獲得できなかったが、1988年の第24回ソウル大会では男子100メートル背泳ぎで鈴木大地(1967― )が、1992年(平成4)の第25回バルセロナ大会では女子200メートル平泳ぎで岩崎恭子(1978― )が優勝している。
2000年(平成12)の第27回シドニー大会では、優勝こそなかったものの、4個のメダル(銀2、銅2)を獲得するなど、好成績を収めた。なかでも、女子400メートルメドレーリレーでの3位は、女子のリレー種目初のメダル獲得という快挙であった。2004年の第28回アテネ大会では男子100メートル、200メートル平泳ぎで北島康介(こうすけ)が日本競泳初の個人種目二冠を達成、女子800メートル自由形で柴田亜衣(あい)(1982― )が優勝、日本女子では自由形初のメダルとなった。このほかに銀1、銅4のメダルを獲得した。2008年の第29回北京(ペキン)大会では、男子100メートル、200メートル平泳ぎで北島康介が優勝し、2種目での大会2連覇を達成した。とくに100メートルについては世界新記録での優勝であった。日本は、このほかに3個の銅メダルを獲得した。2012年の第30回ロンドン大会では優勝は逃したが、銀3、銅8で合計11個のメダルを獲得した。2016年の第31回リオ・デ・ジャネイロ大会では、男子400メートル個人メドレーで萩野公介(はぎのこうすけ)(1994― )、女子200メートル平泳ぎで金藤理絵(かねとうりえ)(1988― )がそれぞれ優勝した。このほかに銀2、銅3のメダルを獲得し、2020年の第32回東京大会に向けて弾みをつける結果になった。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
オリンピック・東京大会(1964)で十分な結果を残せなかった日本水泳界は、その要因として「指導者不足」「通年利用可能なプールの不足」「一貫指導の欠如」の3点をあげた。これらを解決するために、欧米型のエージグループ(年齢別)による選手育成システムを新たに構築することを目ざし、スイミングクラブ設立に向けて動きだした。1965年(昭和40)3月には、東京・代々木に民間のスイミングクラブ第一号が誕生した。東京オリンピックの競泳強化コーチであった村上勝芳(かつよし)が代々木オリンピックプールのサブプールにおいて設立した「代々木スイミングクラブ」である。代々木スイミングクラブの設立後、全国に次々とスイミングクラブができていったが、民間が経営する施設でのスイミングクラブは「多摩川スイミングクラブ」が最初であった。スイミングクラブは経済の成長にも支えられて、学校体育を離れた地域社会のなかで急速に成長し、選手の育成、水泳人口の底辺拡大において大きな功績をあげている。事実、各種の競技会で活躍している選手の多くは、スイミングクラブに所属している。2019年(平成31)3月の時点で、一般社団法人日本スイミングクラブ協会に登録しているクラブ数は1070である。また、スイミングクラブはベビースイミングの開発、マタニティスイミングの普及、マスターズ水泳大会の開催などにおいても大きな役割を果たしてきた。
しかし、東京、大阪などの大都市では、クラブの乱立で経営が苦しくなったり、全国的にも少子化によるクラブ員の減少が大きな課題となっている。こうしたなか、プールを生涯スポーツの場として認識し、中高年者を含む幅広い年齢層に対応した水中歩行、運動療法、アクアティックダンス、リラクセーションなど、「アクアフィットネス」のプログラムを提供するスイミングクラブが増えてきた。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
世界の水泳界は、かつては日本が上位を占めていた時期もあったが、時代とともに大きな変化をみせ、アメリカがエージグループの英才教育の成功により上位を独占するようになった。オリンピックの競泳では、アメリカが金メダルの約3割を獲得している。オーストラリアも水泳熱の向上、泳法やトレーニング法の研究などによって、常時、優れた選手を輩出し、金メダルの約1割を獲得している。世界の水泳は、この両国を中心として発展してきたが、1990年ごろからは、多国間にわたって優秀な選手が輩出するようになった。2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会までのオリンピックの競泳のメダル獲得総数をみてみると、男子は1位がアメリカで、2位がオーストラリア、3位の座を僅差で日本、ドイツ、ロシアが争っている。女子も1位はアメリカで、ドイツ、オーストラリア、オランダ、中国、イギリスの順で続いている。日本女子は10位につけている。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
2000年代以降、日本の競泳が強く、厚い選手層をつくり出し、五輪大会の花形種目とよばれるようになった要因に、日本水泳連盟競泳委員会が制定する「インターナショナル・ナショナル標準記録」とよばれる制度がある。この記録は、最新の世界ランキングをベースにつくられ、「世界で活躍する(すなわち、世界大会において決勝に進出する)選手となるために、目標とすべき記録」である。世界大会への派遣選考に用いられることはもとより、各レベル別、または学年毎に行われる強化合宿の参加者選抜にも用いられ、「一貫性のある具体的な強化指針」として、広く競泳界に根づいている。この標準記録を複数年突破した選手の多くは、世界大会でのメダル獲得または入賞を成し遂げており、競泳委員会の考える強化施策が実を結んだことの裏づけとなっている。とくに、ジュニア世代の成長には近年目を見張るものがあり、複数種目で国内ランキング上位に入る選手、高校生にして日本のトップに躍り出る選手など、その活躍は目覚ましい。こうしたジュニア世代の選手がスムーズにシニアとなって世界大会の舞台で羽ばたく、という正のスパイラルが生じている。
また、日本水泳連盟には、専門委員会として医事委員会(選手のコンディショニング、体調管理、障害予防、アンチ・ドーピングへの取り組みなどを実施)や科学委員会(パフォーマンス分析、映像撮影、ライバル分析などを実施)が設置されている。これらの専門委員会スタッフによるサポートもまた、日本の躍進の要因の一つにあげられる。
日本の競泳界は「明確な強化指針」と「専門的組織によるサポート」という2本の柱で強固に支えられており、この先のオリンピックにおいても、競泳はメダル獲得を期待される種目となるであろう。
[松井 健・林 勇樹・平井伯昌 2020年1月21日]
競泳の泳法には、クロール(自由形)、平泳ぎ、背泳ぎ、およびバタフライの4種類がある。
[古橋広之進 2020年1月21日]
crawl stroke 当初は手の一かきに足1打の泳ぎであったが、アメリカで改善されて、いわゆる「6ビートクロール」になった。自由形の競泳に用いられる。
基本姿勢は、手足を伸ばして全身をまっすぐにし、水面に伏して浮いた姿勢であるが、脚のキックを有効にするためには、ある程度腰を反らせた姿勢となり、スピードが出るにしたがい上体が浮き上がる。足は、膝(ひざ)を軽く伸ばし、左右交互に上下に動かして水を打つ。下に動かす際には、おもに足の甲で水を押して蹴るというイメージで動かす。手は、身体の中心線よりやや外側で肩の線上に、指先から水に入れ、水面下20センチメートルくらいのところで前方に伸ばす(グライド)。その後、手のひらに十分な圧力を感じながら、肘(ひじ)を曲げて指先が身体の中心線を通るように動かして(プル)、水を後方に押す。最後は押し切るようにする(プッシュ)。手は腕の長さを半径として肩を中心に半円を描くのではなく、かいている腕が肩の下方にきたときに肘が約90度に曲がるようにして動かす。水をかき終わった手は力を抜き、肘から順番に腕を水上に上げ、指先が水面および身体の近くを通るように前方に返す(リカバリー)。手は交互に動かして水をかくが、一方の手が水をかき終わる前に他方の手は前方で水に入っている。呼吸は、片腕で水をかいて身体と直角になるあたりまで進んだら、鼻と口から少しずつ息を吐き始め、腕を抜き上げながら顔を横に向けつつ息を吐ききり、口が水面に出た瞬間に一気に息を吸う。両手が交互に1回水をかく間に足が左右3回ずつ水を打つ泳法が標準的な6ビートクロールである。身体のバランスをとったり、泳ぎのリズムを整えたりするために4ビートや2ビートの泳法も用いられている。とくに2ビート泳法は、中・長距離に多く使われている。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
breast stroke ブレストともいう。平泳ぎは、両足は膝を曲げてともに身体に引き寄せ、足を開きながら丸く外側へ掃くように動かして足裏で水を蹴り、両足をあわせるように閉じる。足の蹴りと同時に両腕を勢いよく前に伸ばす。両腕の伸び終わりは足の蹴り終わりよりわずかに早い。一瞬後に手のかきを始める。水を下へ圧するようにして前に伸ばした手は、腕が伸びきってから指先(手のひら)で軽く下へ押し下げてストロークが始まる。手は両腕の開きが45度くらいになったら両腕を曲げ始め、あごの前の水面下20~25センチメートルのところで手のひらを上に向け、軽く上げてかきの動作を終わる。手のかきの後半に膝を曲げて足を身体に引き寄せる。呼吸は、両手のかきの後半にあごと口を水面上に出して息を吸い、水中で口と鼻から息を吐く方法で行う。平泳ぎは、手と足の動きの連係とタイミングが要求される高度な泳ぎである。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
back stroke 一般に、あおむけの姿勢で顔を水面上に出して泳ぐのは、すべて背泳ぎである。かつては背泳ぎも、平泳ぎの蛙足と同じような足の動作で水を蹴り、同時に両手をいっしょに動かして水をかいて泳いだ(エレメンタリー・バックストローク)。クロールが使われるようになって、「あおむけのクロール」ともよばれる現在の泳法が発達した。足は、クロールのばた足をあおむけになって行う要領で打つ。腰の横あたりから水上へ引き上げた腕は、肘を伸ばして肩を中心にして身体の進行方向に回していく。身体の中心線の少し外側か肩の延長線上で、(手のひらを外側に向けながら)小指から入水する。手のひらを後方に向けて一気に腰のあたりまで水をかききる。このプル動作の途中、手が肩の横を通過するくらいのところで肘を約90度に曲げ、水を足のほうへまっすぐ押し下げて終わる。背泳ぎでは、口と鼻が水上にあるため、いつでも呼吸ができる。しかし、片方の手が水上にあるときに口から息を吸い、かいているときに鼻から吐くなど、腕の動作に合わせて呼吸のタイミングを決めておいたほうが泳ぎやすい。背泳ぎは、足を下から上にあげるとき足の甲で強く水を後ろ上方に押すことになるので、腰をよく伸ばした姿勢を保って浮きを助けることがたいせつである。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
butterfly stroke 1933年アメリカの水泳選手ヘンリー・メイヤーズHenry Myersが平泳ぎのとき両手を水上から前に返して泳いだのがその最初で、当時は「バタフライ式平泳ぎ」とよばれていた。1936年に平泳ぎの泳法の一つとして公認され、普及したが、1953年、平泳ぎから正式に独立した。オリンピックでは、1956年の第16回メルボルン大会のときから独立の種目となった。手足とも左右いっしょに動かす点を除けば、泳法はクロールに似ている。足のキックはドルフィンキックが用いられている。ドルフィンはイルカの意で、イルカは水平な尾びれを上下に動かして水中を進み、水面上に姿を現すが、バタフライの足の動きはこれに似ている。普通は、手を一かきする間に、足を2回打ち、1回呼吸する。手を水上から水中に入れるときと、水をキャッチしてからかき始めるときにキックする。この二つのキックをつねに連続させて同じ強さで行い、一連の動作にすることがたいせつである。両手はできるだけ肘を高くして水上を運び、肩の前方に指先から水に入れる。10~20センチメートルの深さで水をキャッチしたら、肘を残して(肘を曲げながら)手からかき始める。手が胸の下方を通過する際には両手が近づくようにし、身体の直下を後方(下半身方向)に向けてかいていく。最後は両手の間隔を開くようにして水を押しきり、水上へと腕を抜いていく。呼吸は、手が水をかき始めたところから頭を上げていき、徐々に息を吐いていく。かきの中ごろで(2回目キックの直後)あごと口を水上へ出す直前に一気に水中で息を吐き、水上に出してから息を吸う。手のかき2回に対して1回、もしくは3回に対して1回呼吸する泳者もある。
このほか実用的な泳法として、横泳ぎ、立ち泳ぎ、浮き身、潜水(潜行)などがあり、一般の水泳、救助法、水球、アーティスティックスイミングなどに広範に応用されている。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
スポーツの成績は、技術、体力および気力の総合された結果であり、競泳の記録向上に必要な基本要素としては、(1)泳法やスタート、ターンの技術、(2)持久力、筋力などの体力、ならびに(3)それらを支えるメンタルがあげられよう。さらに試合ではこれらの心・技・体を生かしたペース配分の設定など戦略的な要素も重要となる。とくに心・技・体の要素は、日常のトレーニングによって向上する。どの程度まで向上するかは本人の素質にもよるが、科学的な理論に基づいたトレーニング方法を、いかに選手の特徴に合わせて取り入れるかにかかっている。
人が水面を泳いでいくとき、1秒間に1メートルぐらいのスピードでは、2~3キログラムの抵抗を正面の水から受ける。2メートルのスピードでは10キログラムに増える。単純に2倍にはならず、2乗倍に増える。そのため、なるべく抵抗の少ない、流線形のよいフォームを身につけ、抵抗を最少にするくふうが技術習得の鍵(かぎ)となる。よいフォームを身につけるため必要なことは、第一に泳ぎの構成要素となる技術(プル、キック、両者のタイミングなど)や一般的な運動方法などの幅広い知識を得ることである。あわせて競技成績を左右するスタート、ターンの技術についても十分に理解することがたいせつである。第二に、これらの知識・情報を取り入れ、選手個人に適したドリル練習(特定動作の改善に役だつ、部分的な動作練習)を日常トレーニングで行うことである。トレーニングにおいては量だけでなく、技術に関する質の部分を絶えず意識することが重要である。
次にはこうした技術を支えるための体力が必要である。競泳では抵抗の少ないフォームや動作を生み出す身体の柔軟性、神経と筋肉の調整能力、筋力、ならびにフォームや動作を持続するための持久力などを重点的に強化する。水を後方へ送ると身体は前方に進む、すなわち、水を後方へたくさん速く押しやることが速く泳ぐことにつながる。そのために、腕や足をはじめ全身の各部分の筋力を強化することがトレーニングのポイントとなる。筋力を増すためには、陸上での筋力トレーニングや、泳ぎながらより強い抵抗負荷がかけられる用具を用いたトレーニングなどを、トレーニング計画に組み入れるとよい。
さらに、競泳においては持久力が重要となる。全力に近い速い速度で泳ぐことのできる距離を少しずつ延ばしていくことが、トレーニングにおいて求められる。休憩をはさんで同じ距離を一定のタイムで繰り返して泳ぐ「インターバル・トレーニング」が、通常、行われている。距離が短い場合は、反復回数を多く、休憩時間(インターバル)を短く、泳速度を少し遅く設定する。距離を増やしていく場合には、反復回数を少なく、休憩時間を長く、泳速度を少し速めて設定する。ほかにも専門種目の距離の2~3倍の距離を一定のペースで泳ぐ「オーバーディスタンス・トレーニング」、100~400メートルぐらいの距離をほぼ全力で泳ぎ、少し長い休みをとって何回も反復する「レペティション・トレーニング」などがある。近年、高地の低い酸素分圧の環境や人工的な低酸素環境を利用して練習を行い、酸素運搬にかかわる諸機能をより大きく改善し、競技記録向上に生かそうとする方法がトップ選手などで行われている。いわゆる高地トレーニングである。身体に大きな負担をかける方法であり、個人的な環境適応能力との関連が深いため、事前・事後と実施期間中の十分なメディカルチェックが必要である。
柔軟な身体や神経の調整能力も重要な体力要素である。理想のフォームや動作につながるよう、陸上での柔軟運動やバランス運動をくふうし、継続することがたいせつである。
前述の技術・体力トレーニングでは、トレーニングのつらさに耐える心(忍耐力)と他のことを自制していく心(克己心)が不可欠である。また、試合においては、会場で受けるプレッシャーに負けない精神力が求められる。精神力をつけるためには自信が大きくかかわってくるので、自信を付けるための目標設定から目標達成までの流れを意識する。さらに、試合におけるレースイメージを成功イメージとして普段から想像することがたいせつである。
このほか、陸上の補強トレーニングとして、ゴムチューブや布製バンドを使った運動、ウェイト器具を使った筋力補強運動、バランスボールを用いた運動、けが予防のためのインナーマッスル強化の運動など、さまざまな練習方法がある。
以上のような練習方法を通常、(1)準備、(2)鍛練、(3)調整の3段階に分けて、それぞれの段階で目的が達成できるように組み立て、1日、1シーズン、さらに長い年月の練習の計画を推し進めることが必要である。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
スピードを競う競技で、1896年の第1回オリンピック・アテネ大会から採用された。第4回ロンドン大会(1908)を契機として同年国際水泳連盟(FINA)が結成された。日本は、第7回オリンピック・アントワープ大会(1920)に初参加し、1924年(大正13)に日本水上競技連盟を結成した。この連盟は、1945年(昭和20)に日本水泳連盟(Japan Amateur Swimming Federation、略称はJASF)に改組、改称された(現、Japan Swimming Federation、略称はJASFで変更なし)。同連盟は1974年に財団法人の認可を受け、2012年(平成24)には公益財団法人に移行し、競技種目の統括とともに、水泳を通じた日本のスポーツの振興に努めている。
競泳は、FINAが世界記録の公認、各種規定を統轄している。オリンピック以外には世界選手権大会が1970年以降4年ごとに開かれ、1979年には、水泳のワールドカップ大会であるFINAカップが開かれている。また、生涯水泳を目ざす中高年者の年齢別水泳国際大会である国際マスターズ水泳大会International Masters Swimming Championshipがあり、第1回は1984年ニュージーランドのクライストチャーチで開かれた。また1986年新たに第1回世界マスターズ選手権大会が19か国参加のもとに東京で開かれた。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
競泳には、自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーの個人競技(男子/女子)と、フリーリレー、メドレーリレーのチーム競技(男子/女子/男女混合)がある。50メートルプール(長水路)および25メートルプール(短水路)での記録が、日本記録や世界記録として公認される種目とその距離は次のとおりである。
〔1〕自由形 50メートル、100メートル、200メートル、400メートル、800メートル、1500メートル(自由形はどの泳法で泳いでもよいが、実際上クロールが用いられている)
オリンピックでは、2016年のリオ・デ・ジャネイロ大会までは、800メートルは女子のみ、1500メートルは男子のみであった。2020年の東京大会からは、2種目とも男女双方の種目として採用される。
〔2〕背泳ぎ 50メートル、100メートル、200メートル
〔3〕平泳ぎ 50メートル、100メートル、200メートル
〔4〕バタフライ 50メートル、100メートル、200メートル
オリンピックでは、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの50メートル種目は行われない。
〔5〕個人メドレー 100メートル(25メートルプールのみ)、200メートル、400メートル
個人メドレーは1人で、(1)バタフライ、(2)背泳ぎ、(3)平泳ぎ、(4)自由形((1)(2)(3)以外の泳法)の順に泳ぐ。男子の400メートルはオリンピック東京大会(1964)から加わった種目である。
〔6〕フリーリレー 200メートル(4人×50メートル、日本記録のみ)、400メートル(4人×100メートル)、800メートル(4人×200メートル)
〔7〕メドレーリレー 200メートル(4人×50メートル、日本記録のみ)、400メートル(4人×100メートル)
メドレーリレーは4人で、(1)背泳ぎ、(2)平泳ぎ、(3)バタフライ、(4)自由形((1)(2)(3)以外の泳法)の順に泳ぐ。
〔8〕混合フリーリレー 200メートル(4人×50メートル、日本記録のみ)、400メートル(4人×100メートル)
男女各2名で構成。男女の起用順は自由。第1泳者の記録は公認されない。
〔9〕混合メドレーリレー 200メートル(4人×50メートル、日本記録のみ)、400メートル(4人×100メートル)
男女各2名で構成。男女の4泳法の選択は自由。第1泳者の記録は公認されない。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
スタートは、背泳ぎの場合を除いて、立ち飛込みによって行う。スタート台上での姿勢には制限がない。ただし、出発合図員の「Take your marks」(2016年度までは「ヨーイ」)の号令によって競技者はスタート台前方に少なくとも一方の足の指をかけ、速やかに静止してスタートの姿勢をとる。すべての競技者が静止したら、スタートの合図(ピストル)が行われるが、その前にスタートした競技者は失格となる。背泳ぎのスタートは水中から行われ、スタートの構えでは足の指が水面の上下いずれにあってもよいが、プールのへり、タッチ板の上端、排水溝に足や足の指をかけてはならない。また、バックストロークレッジ(背泳ぎ用スタート補助装置)を使用する場合は、両足のつま先が(指を伸ばして)タッチ板に接していなければならない。「Take your marks」の号令で、速やかにスタートの姿勢をとり、出発の合図があるまでスターティング・グリップから両手を離してはならない。スタート後、身体があおむけの状態で水没・推進してもよいが、15メートルの地点までに頭が水面上に浮上しなければならない。
競技者は、スタートしたレーンと同じレーンを維持し、ゴールしなければならない。折り返し(ターン)の際、各泳法の規則に従い、プールの壁に身体の一部を接触させなければならず、折り返しは壁で行わなければならない。泳者が他の泳者を妨害したときは失格となる。競泳中、自由形のみ水底に立っても失格とならないが、歩くことは許されない。また、競技中にレーンロープを引っ張ると失格になる。リレーの引き継ぎで、前の泳者が壁にタッチする前に、次の泳者の足がスタート台から離れたときには、そのチームは失格となる。また、リレーオーダーは予選と決勝で変更してもよいが、提出されたオーダーどおりに泳がないと失格になる。泳いでいないチームメンバーが、すべてのチームの全泳者が競技を終える前に入水すると、そのチームは失格となる。
自由形では、泳法に関する制限はない。自由形、背泳ぎ、バタフライでは、スタートおよび折り返し後、壁から頭の浮上地点まで15メートル以内の距離であれば、身体が完全に水没してもよい。
平泳ぎでは、身体をうつぶせにして、1回の腕のかきと1回の足の蹴りを交互に行う。両腕のかきと両脚の蹴りは左右対称の形で行う。スタートと折り返し後の腕の一かきと足の一蹴りについては、水面下で行ってよい。この最初の一蹴りの前には、1回のバタフライの蹴りが許されている。二かき目の両腕が最も幅の広い位置で、かつ両手が内側に向かう前までに、頭の一部が水面上に出ていなければならない。肘は、折り返し前の最後の一かき、折り返しの動作中およびゴールの際の最後の一かきを除き、水中に入っていなければならない。両手は、スタートおよび折り返しの後の一かきを除き、ヒップラインより後ろに戻してはならない。また、折り返しおよびゴールタッチの際には両手を同時に、かつ離れた状態で壁にタッチしなければならない。水面の上下いずれの壁にタッチしてもよい。それ以外の競技中は、泳ぎの各サイクルの間に頭の一部が一度は水面上に出なければならない。
背泳ぎでは、つねにあおむけの姿勢(頭を除く肩の回転角度が水面に対して90度)を保って泳ぐ。折り返しとゴールタッチでは、身体の一部がプールの自レーンの壁に触れなければならない。折り返しの際は、肩が胸の位置に対して垂直以上に裏返しになってもよい。その後、ターンを始めるために、速やかに一連の動作として、片腕あるいは同時の両腕のかきを使用できる。足が壁から離れたときには、あおむけの姿勢に戻っていなければならない。また、ゴールタッチの際には、あおむけの姿勢でタッチしなければならない。
バタフライは、両腕を同時に水中で後方に運び、同時に水面の上を前方に運ばなければならない。すべての足の上下動は両足同時に行う。両脚・両足は同じ高さにならなくてもよいが、交互に動かすことはできない。平泳ぎの足の蹴りも禁止されている。スタートおよび折り返し後、最初の腕のかき始めから、身体はうつぶせでなければならない。折り返し動作中は、壁に手がついた後うつぶせ状態でなくてもよいが、足が壁から離れたときには、うつ伏せ状態でなければならない。折り返しおよびゴールタッチの際には、水面の上もしくは下で、両手を同時に、かつ離れた状態でタッチしなければならない。
[古橋広之進・松井 健 2020年1月21日]
『古橋広之進著『水泳』(1974・講談社)』▽『田口信教著『J(ジュニア)水泳』(1995・旺文社)』▽『日本水泳連盟編『水泳指導教本 改訂第三版』(2019・大修館書店)』
水面または水中を泳ぐ運動をさす。游泳ともいい,江戸時代末までは水練(すいれん)と呼ばれていた。競技としては現在は競泳のほか,シンクロナイズドスイミング,水球,飛込競技も水泳競技に含めている。
人類は太古から,水中の食料を採集したり,川を横切ったり,水難からのがれるために泳いだと想像され,また,宗教的な沐浴(もくよく),衛生のための洗身も水泳を生んだと思われる。記録としては,古代エジプトのパピルス文書(前2000年),アッシリアのニムルド出土の兵士の図(前9世紀),中国古代の《荘子》《列子》《淮南子(えなんじ)》などがある。古代ギリシアでは,オリンピック種目には入っていなかったが,水泳は軍事的・教育的に重視されていたし,ローマで盛んだったいわゆるローマ風呂の中心はフリギダリウム(冷水浴場)だった。しかし中世ヨーロッパでは水泳は衰退し,近世になってその体育的価値が評価されるようになり,19世紀にはイギリスを中心にスポーツとして広まっていった。
日本では,《古事記》に伊邪那岐(いざなき)命(伊弉諾尊)がみそぎをしたとあり,《日本書紀》には海部(あまべ)が諸国に置かれたと記されている。海人(あま)は船員として水軍の船にも乗り,中世には水泳が軍事技術として発達し,武芸十八般の一つにかぞえられるようになった。しかし江戸時代の鎖国策で統制が厳しくなり,水泳は藩校の武術の科目として残ったが,地方に分化したためかえって技法が特殊化され,多くの流派となって伝えられた。これらの流派の泳法はバラエティに富み,技術的にはヨーロッパよりも格段に進んでいた。明治時代に入って各流派は東京の隅田川に道場を開き,また,東京大学などの水泳場も開設された。1900年には各派統一のための日本游泳術研究会が創立された。これより先1898年,水府流太田派道場と横浜在住の外国人たちが横浜西波止場で競泳大会を開いて太田派が勝ち,水泳の関心が高まったことも見のがせない。
日本泳法は大別すると,平体=水面に伏した姿勢あるいは背泳,立体=立泳ぎ,横体=片方の肩を下にした横向きの姿勢,の3種があり,各派技巧をこらしている。古式泳法のおもな流派を次にあげる。
(1)能島流 野島流とも書く。紀州藩の能島水軍の伝統をひくといわれ,南北朝時代に村上義弘が海賊流として創設,のち能島流となり,名井家,多田家に伝わった。平体と巻足(まきあし)の立体を主とする簡素厳格な泳ぎである。(2)河井流 寛永年間(1624-44),熊本に河井(河合)半兵衛が始めたもの。のち三田尻(山口県)に〈武田流〉として伝わる。(3)岩倉流 熊本の人,岩倉重昌が宝永年間(1704-11)に紀州において開創したといわれ,のち川上家に移り,川上流となる。立体を主とする。(4)向井流 江戸時代初頭の御船手奉行(おふなてぶぎよう)向井正綱を始祖とし,権威があった。明治に入って笹沼良助が笹沼流を開いた。平体,横体を主とする。(5)水府流 1700年ころから水戸藩に行われたもので,小松軍蔵による下市系と,島村正広による上市系があったが,1842年(天保13)藩主の命で合併した。横体の伸(のし)(熨斗)を特徴とする。(6)水任流 17世紀中ごろ高松藩主松平頼重が今泉八太夫に命じ,水戸の技法を讃岐に合わせて改良したもので,特殊なさかさあおり足を用いる。(7)小堀流 1714年(正徳4)熊本の村岡伊太夫の創始といわれ,その養子小堀長順によって大成された。立体の巻足を基礎とし,踏水術とも呼ばれる。(8)神伝流 伊予(愛媛県)大洲藩で江戸初期に始められた。のち伊予松山藩,作州津山藩にも受けつがれたため,創始者加藤主馬光尚らの系統は〈神伝主馬(しゆめ)流〉と呼んで区別する。横体のあおり足の泳法を用いる。(9)観海流 比較的新しく,1853年(嘉永6)武州浪人の宮発太郎が津藩に招かれて創始したもので,明治期に軍隊,学校で盛んになった。蛙足平泳(かえるあしひらおよぎ)の系統。(10)山内(やまのうち)流 松山の浪士,山内勝重が神伝流をもとに1822年に九州臼杵(うすき)藩で開いたもの。(11)神統(しんとう)流 薩摩(鹿児島県)で武術として発生したもので,1500年ころ黒田頼定が確立した。
スピードを競うレースを競泳というが,これは主催団体ができて規定が確立するとともに盛んになった。1869年ロンドンに首都水泳クラブ協会が創立され,同年にテムズ川で1マイルレースが行われた。96年第1回オリンピック大会から水泳が採用され,1908年の第4回ロンドン大会がきっかけとなって,同年,国際水泳連盟Fédération internationale de Natation amateur(FINA)が生まれた。日本では14年に日本体育協会主催の全国大会が開かれ,20年の第7回オリンピック(アントワープ)に初参加,24年には日本水上競技連盟が結成され,その後現在の日本水泳連盟Japan Amateur Swimming Federation(JASF)となった。競泳については国際水泳連盟が世界記録の公認と諸規定を統制し,69年まではヤード制もあったが,現在は25mと50mプールでの記録が公認される。なお,オリンピックとは別に国際水泳連盟主催の世界選手権大会が73年以降開かれている。競泳の泳法としては,クロール,背泳,平泳,バタフライの4種がある。
水面に伏せて浮き,バタ足(キック)しながら左右の手を交互にかいて泳ぐ。平泳から発展したもので,1863年にイギリスのトラジァンJ.Trudgenがアルゼンチンで見た泳ぎをとり入れて抜手,はさみ足のトラジァンストロークを開発したといわれ,日本でも1915年に紹介された。また,南太平洋諸島の原住民の泳ぎをもとにオーストラリアのキャビルCavill兄弟がバタ足を用いたオーストラリアンクロールをあみ出し,1902年にヨーロッパで披露された。そのころは1ストローク(左右の腕を1回ずつかく)について足を2回打つ2ビート泳法であったが,のちにアメリカで4ビートに改良され,現在は6ビートを主流にさまざまな技法が用いられている。クロールは自由形(フリースタイルfreestyle)ともいわれる。泳法を限定しない自由形では,クロールで泳ぐのがいちばん速いからであるが,メドレーの際の自由形はクロールを用いなければならない。
第1回オリンピック大会の水泳は100mの自由形のみで,レースは海上で行われたが,第2回パリ大会には200m(220ヤード)となり,これに背泳が加わった。第3回セント・ルイス大会では自由形4種目のうち200m,400mでアメリカのC.ダニエルズが優勝,第5回,第7回大会ではハワイ出身のカワナモクが金メダルを獲得したが,クロール泳法を完成させたのはJ.ワイズミュラーで,彼は1922年には100mに57秒4の世界記録をつくり,24年第8回パリ大会,28年第9回アムステルダム大会を通じリレーを含む5個の金メダルをオリンピックで獲得した。第8回大会には,日本の高石勝男が100mと1500mで5位,第9回大会には100mで3位に入賞している。ワイズミュラーがパリ大会で1分を切る59秒0を出したが,52年後の76年第21回モントリオール大会の優勝者,アメリカのJ.モンゴメリーの記録は49秒99であった。
現在オリンピック大会では男子は50m,100m,200m,400m,1500m,400mリレー,800mリレー,女子は50m,100m,200m,400m,800m,400mリレー,800mリレーの合計14種目の自由形レースがある。1500mは日本選手に縁が深く1932年の第10回ロサンゼルス大会で14歳の北村久寿雄が金メダルを獲得したのをはじめ,第2次大戦直後には古橋広之進,橋爪四郎が泳ぐたびに世界記録を書き換えた。その後も山中毅がオリンピックで名勝負を演じている。1500mで15分の壁を破ったのは80年のモスクワ・オリンピック大会におけるV.サルニコフ(旧ソ連)で,14分58秒27の世界新記録を出した。彼の泳ぎは4ビートの力強い泳法であった。2008現在,長水路の男子100mの世界記録は,E.サリバン(オーストラリア)が同年にマークした47秒05で,200mはM.フェルプス(アメリカ)の1分42秒96。400mはI.ソープ(オーストラリア)の3分40秒08,800mと1500mはG.ハケット(オーストラリア)の7分38秒65,14分34秒56である。
背中を下にしたクロール。水中でスタートし,競技中はつねにあお向けの姿勢を保つ。第2回パリ大会からオリンピック種目として実施され,ホッペンベルグ(ドイツ)が200mで2分47秒0の好タイムで優勝したが,セーヌ川の流水で行われたため世界記録として公認されなかった。当時の背泳はダブルバックと呼ばれ,平泳をあお向けにしたような泳ぎであった。足はカエル足で,手(ストローク)は両腕を同時に水面から抜き前方に運ぶ,バタフライの逆動作に似ていた。現在のような背泳に変えたのはH.ヘブナー(アメリカ)である。彼は練習中,クロールを裏返しにして泳いだところスピードが出ることに気づき,1912年のストックホルム大会の100m背泳に1分21秒2のオリンピック新記録で優勝した。このヘブナーのバッククロールは泳法違反ではないかと協議されたが,この大会を契機に新泳法が世界中に広まった。アメリカにはW.ケーロハ,W.ラウファー,G.コジャックら若手選手が輩出したが,28年東京・玉川プールで開かれた国際競技会の200mで世界記録保持者のラウファーと対戦した入江稔夫はラウファーに3mの大差をつけ2分37秒8の世界新記録で優勝,4年後のロサンゼルス・オリンピック大会の100m背泳では清川正二,入江,河津憲太郎が金,銀,銅メダルを独占した。しかし第11回ベルリン大会ではアメリカのA.キーファーが金メダルを取り,また,トンボ返りターン(キーファーターン)をあみ出し世界記録を次々と塗り替えた。
第2次大戦後もアメリカはロンドン,ヘルシンキ両オリンピック大会で圧倒的な強さを見せたが,メルボルン,ローマ大会では新興オーストラリアのD.タイル,J.モンクトンが活躍した。しかしアメリカは64年の東京大会で金,銀,銅メダルを獲得,この大会を機に背泳は力から技の時代に転換していった。クロールの6ビートのような美しいフォームを完成させたのはR.マッテス(旧東ドイツ)で,メキシコ,ミュンヘンの100m,200m両種目にオリンピック2連勝を成し遂げた。モントリオール大会ではJ.ネーバー(アメリカ)が100m・200m背泳,400mメドレーリレー,800mリレーで金メダル,200m自由形で銀メダルを獲得した。88年のソウル大会では鈴木大地が優勝している。オリンピック種目としては男子200m,女子100mでスタートしたこの背泳も,メキシコ大会(1968)から男女とも100m,200mが実施されている。長水路の男子100m背泳の世界記録はA.ピアソル(アメリカ)の52秒54で,200mはR.ロクテ(アメリカ)の1分53秒94。女子100mと200mは,いずれもK.コベントリー(ジンバブエ)の58秒77,2分05秒24である。
うつぶせになり,手を前方から左右に開いて円を描きながら水をかき,足をけって泳ぐ方法。オリンピック種目として登場したのは1908年。しかしこの平泳ほど変わった種目はなく,48年のロンドン,52年のヘルシンキ両大会は入賞者のすべてがカエル足をもちいたバタフライ泳法であった。56年メルボルン大会ではバタフライは分離独立し,平泳は潜水泳法全盛であった。幾多の改正を経て,手足の動作はすべて水中で左右同時に対称的に行い,つねに頭の一部が水面上に出ていなければならないという現行ルールが誕生した。日本では1928年のアムステルダム大会の200mで鶴田義行が2分48秒8で日本水泳選手として初めて優勝して以来,小池礼三,葉室鉄夫ら名選手が続き,女子選手でも前畑秀子がベルリン大会で日本女子選手の金メダル第1号になった。56年のメルボルン大会では潜水泳法を駆使した古川勝,吉村昌弘が金,銀メダルを獲得したが,大会後,潜水泳法は禁止された。その後はアメリカのC.ジャストレムスキーがハイピッチ泳法をあみ出し,G.プロコペンコを中心とした旧ソ連の選手がストロークの大きい豪快な平泳を完成させたが,田口信教がこの両者の泳ぎをうまくとり入れて水中深くけり込む田口式キックをあみ出し,72年のミュンヘン大会では100mに優勝,200mに3位入賞した。〈平泳〉を〈立体泳ぎ〉に転換したこの泳法は泳法違反に問われたこともあったが,現在は欧米選手もみな呼吸点の高いこの立体泳法を採用している。オリンピック種目としては男女とも200mでスタートしたが,68年のメキシコ大会から100m,200mの2種目となった。92年のバルセロナ大会では女子200mで14歳の岩崎恭子が金メダルを獲得。続いて北島康介が2004年のアテネ大会,08年の北京大会で100mと200mの両種目で連覇を達成した。長水路の世界記録は,男子100mと200mがいずれも北島康介の58秒91,2分07秒51。女子100mはL.ジョーンズ(オーストラリア)の1分05秒09,200mはL.ソニ(アメリカ)の2分20秒22である。
チョウが飛ぶような動きの泳法。平泳の変化したもので,空中高く前方に運んだ両腕を一気に下ろして水をかき切る。初期には,足は平泳と同じカエル足だったが,両足をそろえて足の甲で水をけるドルフィンキックも行われ,1954年に国際水泳連盟は両足キックを用いたバタフライを独立種目とした。現在は1ストローク,2キックが一般的である。ドルフィンキックを完成させたのは長沢二郎であった。彼はヘルシンキ・オリンピック大会当時ひざを痛めて,カエル足のバタフライができなくなり,ドルフィンキックを考え出したという。この技術を石本隆が受けついで,技術を向上させた。しかし56年のメルボルン・オリンピック大会では,大接戦の末,W.ヨージク(アメリカ)に敗れて銀メダルに終わった。メキシコ大会から100m,200mの2種目になり,72年ミュンヘン大会でM.スピッツ(アメリカ)が両種目に優勝,リレーを含め7個の金メダルを獲得した。日本もこの大会で青木まゆみが女子100mで1分3秒34の世界新記録を出し,金メダルを獲得した。2008年現在,長水路の世界記録は,男子100mがI.クロッカー(アメリカ)の50秒40,200mはM.フェルプス(アメリカ)の1分52秒03。女子100mはI.デブルーイン(オランダ)の56秒61,200mは劉子歌の2分04秒18である。
メドレーは,混合の意。上記の4種の泳法を順に泳ぐもので,個人メドレーとメドレーリレーがある。個人メドレーは,バタフライ,背泳,平泳,自由型の順に1人で続けて泳ぎ,各50mの200mメドレーと各100mの400mメドレーがある。個人メドレーは競泳のなかでいちばん新しく,1964年のオリンピック東京大会から400mメドレーがオリンピック種目として採用された。男子はR.ロス,女子はD.デバロナ(ともにアメリカ)が金メダルを獲得した。メキシコ,ミュンヘン両大会では200mが加わったが,モントリオール,モスクワ大会では男女とも400mの1種目となり,84年のロサンゼルス大会から再び200mが復活した。メドレーリレーは,4人の泳者が1人100mずつを,背泳,平泳,バタフライ,自由形の順でリレーして合計400m泳ぐレースで,4×100mメドレーリレーと表記され,オリンピックでは1960年のローマ大会から採用されている。
執筆者:石井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…馬術,フェンシング,水泳,射撃,ランニングという性質の異なった5種の競技を1日で行い,合計得点で順位を決めるスポーツ。
[歴史]
古代オリンピック(前776‐後393)の競技種目の中に五種競技があり,第18回大会(前708)から実施された。…
…からだの種々の場所に起こりうるが,最もしばしばみられるのがふくらはぎの腓腹筋である。水泳中によく起こって,適切な応急手当を知らないで,おぼれたりする場合がある。また,夜中にはげしい痛みを感じて目を覚ましたりする。…
※「水泳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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