民族音楽は文字どおりには、「世界の諸民族が固有に伝承してきた音楽」と解することができるが、このことばはさまざまな用いられ方をされてきている。
(1)もっとも古典的なものは、「西洋の古典音楽およびポピュラー音楽以外の音楽」というものである。もともとethnicには、「異民族の、異教徒の」という意味があり、ここでの民族音楽という用語には、「(ヨーロッパの発達した音楽に対して)異民族・異教徒のエキゾチックで野蛮な音楽」という意味合いが含まれている。こうした差別的な音楽のとらえ方は最近では否定されているが、一方でそうした価値的な判断をせず、単に「西洋の古典音楽およびポピュラー音楽以外の音楽」を指し示す意味で使おうという主張もあり、それなりに通用している現実もある。しかしそれでも、西欧音楽に対してその他の地域の音楽がひとまとめにされて対置されるというヨーロッパ中心的な立場は変わらないので、こうした用法での使用をなるべく避けようとする傾向が最近顕著になってきている。
(2)さらに(1)の概念が日本に移入、日本化されて、「西洋の古典音楽、ポピュラー音楽、および日本の古典音楽(いわゆる邦楽)、ポピュラー音楽以外の音楽」という意味合いで使われているのが、現代の日本で一般にいう「民族音楽」である。しかしながら(1)と同様の批判がここにも当てはまるのであり、安易にこのことばを使用することには問題があろう。
(3)こうした反省にたって、音楽の分類をヨーロッパ中心主義から解放し、また特定のジャンルによって音楽を規定することをも拒否する動きが顕著になってきている。このような立場においては、特定の民族名、地域名、国名をつけた「○○の民族音楽」という個別的な使われ方がなされる。この場合、そこで行われているあらゆる音楽(場合によっては移入された音楽も)が含まれることになる。たとえば「日本の民族音楽」という際には、雅楽や近世邦楽などの古典音楽や民謡、民俗芸能、さらには歌謡曲やポピュラー音楽、日本人によって作曲・演奏される西洋クラシック音楽に至るまでの、あらゆる音楽を指し示すのである。このような用法は近年かなりの支持を得ている。
(4)ところが(3)の考えを推し進めていくと、すべての音楽がその概念に含まれるので、わざわざ「民族音楽」という必要がなくなってくることになり、単に「音楽」というだけでよいのではないかという主張が生じてくる。これはいわば「民族音楽」否定論ともいうべきもので、近年しだいに支持を得つつある。
(5)ところで(4)の主張を十分認めたとしても、「音楽」といったときに、いまだに特定のジャンルや地域の音楽しか想起されない現実を指摘することもでき、ここに(3)と(4)を折衷した考え方が浮上してくる。すなわち「音楽」ということばによってそこで行われているあらゆる音楽が示される時期がくるまで、いままであまり知られてこなかった種類の音楽をも喚起させる意味合いも含めて、暫定的に(3)の個別的な用法で「民族音楽」ということばを使用することを主張するのである。これによって民族音楽という概念は、とかく偏りがちな音楽観に警鐘を与え続ける働きを果たすことになる。
民族音楽否定論の(4)の立場がしだいに認められてきている現在、「民族音楽」ということばを使用する意義はまさにこうした点にあると思われる。本項目でも「民族音楽」ということばを、こうした(5)の立場で使用する。
次に、やや特殊な用法について補足的に述べておこう。
ロシアや中国、朝鮮などでは、自国(自民族)の伝統的な音楽、あるいはそれに基づいて新たに創作された音楽を民族音楽とよんでいる。
また、近年流行している用法としては、「民族音楽」というより「エスニック・ミュージック」といわれることのほうが多いものがある。その内容はあまり明確ではなく、単にエキゾチックな感じを与える音楽といったほどの意味をもつものである。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで、エキゾチックな音楽を生活のなかで楽しむことそれ自体は悪いことではない。しかしながらエキゾチックを強調することは、ある意味では古典的な(1)の用法に近づくことを意味するので、注意が必要であろう。
なお「民族音楽」によく似たことばに「民俗音楽」というのがある。これは階層化された社会において、上層社会の音楽を「芸術音楽」とした場合に、その対極としての基層社会が担う音楽というやや差別的な意味で使われるものである。したがって民俗音楽といわれるものが部分的に民族音楽に重なることはあるにしても、その概念にはかなりの相違があり、両者を混同して使用することは避ける必要がある。
[田井竜一]
ここでは、世界のさまざまな民族音楽を内的構造および外的条件に即して概観することにより、その多様な姿を示す。
[田井竜一]
(1)音高(音組織) 使われる音の数をみると、ピグミーやオーストラリア先住民では比較的少なく、イラン=ペルシア音楽では多い。ただしこのことは音楽の優劣を意味するわけではない。また音域も東アジアでは比較的広いのに対して、オセアニアでは狭い。さらにチベットやドン・コサックでは低い音域がよく使われる一方、アンデス山地や奄美(あまみ)諸島では高い音域が好まれる。音律に関しては、ヨーロッパでは一般に平均律が用いられるのに対して、アジア各地域(とくに西アジア)では微小音程が顕著であり、理論的裏づけもみられる。
(2)リズム(時間語法) 西アジアでは(とくに器楽や声楽の即興演奏において)自由リズムが重要な意味をもっているのに対して、西ヨーロッパにおいては二拍子、三拍子系の固定リズムが一般的である。東アジアでは分割リズムが多い一方、東ヨーロッパの舞曲などでは、5/8拍子(2+3)や7/8拍子(2+2+3)といった付加リズムがみられる。またアフリカやカリブ海周辺ではシンコペーションが多用され、リズム構造が積み重ねられるヘミオラのリズムも多くみられる。さらにテンポに関しても多様な側面がある。たとえば南インドの古典音楽やアフリカの音楽などではテンポが固定的であるのに対して、北インドの古典音楽や朝鮮の器楽形式ではテンポが漸次的に加速される。
(3)音強(ディナーミク) 日本の地歌(じうた)や三曲(さんきょく)合奏においては比較的強弱の幅が狭いのに対して、ミャンマーやインドネシアの合奏音楽では強弱のディナーミクの幅が広く、弱音と強音には対照性がみられる。
(4)音色 まず発声法についてみてみよう。ネイティブ・アメリカンや中国などでは咽喉(のど)を詰めた発声が特徴的である一方、ポリネシアやメキシコの歌謡などでは咽喉を開いた柔らかい発声がみられる。また地声発声も各地にみられ、スペインのフラメンコやブルガリアの女声合唱、朝鮮のパンソリなどが代表的である。さらに鼻音唱法も、タイやミャンマーなどの古典声楽曲やオセアニアなどでは重要な位置を占めている。そのほか、アルプス地方のヨーデルやピグミーの合唱、ハワイアンなどでは裏声発声が効果的に使用される。音色とアンサンブルの関係をみると、東南アジアに広く分布しているゴング・チャイム文化においては似た音色の楽器が組み合わされるのに対して、ヨーロッパのオーケストラでは音色がかなり違ったものが組み合わされているということができよう。
(5)テクスチュア(音構成原理) ここでは音楽作品における音の組織化の原理の多様性に着目する。たとえばネイティブ・アメリカンやトルコの古典声楽では、1本の旋律線が音楽全体を構築するモノフォニーが支配的である。また東アジア、東南アジア、日本の音楽では、基本的に類似した2本以上の旋律線が相互に関連して同時に進んでいくヘテロフォニーが一般的である。2、3本の旋律が相互に関連しあいながら進行するパラフォニーには、さまざまな形態がある。たとえば中央ヨーロッパには平行唱が多くみられ、ブルガリアには一つの旋律が持続されるドローン合唱がある。和声のある音楽はヨーロッパだけに存在するのではなく、台湾の先住民やポリネシアなどでも盛んに行われている。さらに類似点の少ない二つ以上の旋律、あるいは類似点をもちながらもかなりの時間的逸脱をもつ旋律が相互に関連しあうディスフォニーも広く分布している。たとえば、旋律を模倣していくカノン的な奏法は東南アジアの少数民族にみられ、また一つのパートで短い動機を繰り返すオスティナート奏法は、サルデーニャ島の男声合唱などで使用される。一方、一つの旋律をいくつかのパートに割り振り、交互に演奏して完成させるホケトゥス奏法は、アフリカ、オセアニア、東南アジアなどに広く分布している。さらに対位法的な奏法は、カフカス地方ジョージア(グルジア)の合唱、アフリカの合唱や器楽の即興演奏、ヨーロッパの古典音楽などに多くみられる。
(6)形式(楽曲構造) ここでは音楽作品の構成のされ方についてみていく。アラビアやアフリカでは、旋律型・リズム型を繰り返していく反復形式が特徴的であり、ヨーロッパの民謡では、詩の各節が第一節につけられた旋律を繰り返す有節形式が一般的である。また西アジアやヨーロッパの語物(かたりもの)では、いくつかの旋律・リズムパターンが組み合わせられるし、イラン=ペルシア古典音楽では種々の楽曲形式を組み合わせて、変化・対照をつける方法がとられる。そのほか、変奏を行う形式や既製の形式を応用する形式などさまざまなものがある。
[田井竜一]
人間はつねに自然環境と相互作用しながら生きている。したがって音楽においても、自然環境との密接な関係がみいだせる。たとえば、身近な環境に竹が多数生えているとしよう。人々は竹を素材にさまざまな音具(楽器)をつくりだすことだろう。事実メラネシアのソロモン諸島の人々は、竹を使っていろいろな音楽表現を行っている。たとえば、竹筒を手や頬(ほお)に打ち付ける、竹筒を何本か組にしてリズミカルに地面に打ち付ける、竹筒を棒でたたく、節を抜いて笛をつくる(口で吹くものと鼻で吹くものがある)、節を抜いた笛を何本か筏(いかだ)状に組んでパンパイプにする、竹の両端に弦を張ってはじいて音を出す(楽弓)といったぐあいである。このように人々はそれぞれの自然環境にうまく適応しながら、そこから豊かな音楽表現を生み出しているのである。
[田井竜一]
ヨーロッパや日本の古典音楽などにおいては、音楽は実生活や社会から切り離され、いわば自律的に存在している傾向がある。しかしアジア、アフリカ、オセアニアなどの多くの社会においては、音楽は日常生活をはじめ、人生儀礼や祭礼、儀式などと密接に関係しながら存在しており、それらを離れては存在しえないのである。
[田井竜一]
音楽は人間が音という素材を利用して、なんらかの意味をもつものにしたものであるから、その人(々)の価値体系、世界観、祖先観などと密接なかかわりをもっている。ある社会でもっとも重要と考えられている音楽は、そうしたものとかかわるものであることが多い。とくに宗教とのかかわりには顕著なものがあり、民族音楽をはぐくむ大きな源泉の一つになっている。たとえば仏教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンドゥー教などの宗教は、宗教的な音楽のみならず世俗的な音楽や諸芸能、ポピュラー音楽に至るまでの広範な音楽のジャンルに影響を与えている。
[田井竜一]
民族音楽を広く見渡してみると、音楽として単独に存在しているものはむしろ少ないことに気がつく。すなわち、演劇や舞踊、造形芸術、文芸といったジャンルとさまざまに融合した形で存在していることが多いのである。たとえば演劇とのかかわりについていうと、南アジアや東南アジアの芸能においては音楽と演劇(さらに舞踊が含まれる場合もある)は一体になって存在しているし、ヨーロッパのオペラや劇音楽についても同様のことがいえる。舞踊については、たとえばインド舞踊において、音楽はそのもっとも重要な要素であり、両者は相互に影響しながら発展してきた。演劇や舞踊との関係に限らず、身体動作と音楽の関係には、世界のどの地域においても密接なものがあるといえる。またオセアニアやインドの一部の地域などでは、音楽を演じることとなにかを造形することが同一にとらえられている。さらに文芸については、声楽の歌詞や語物のテキストなどが、音楽とつねに深いかかわりをもっていることが指摘できる。
[田井竜一]
現代の日本において、民族音楽を味わったり演奏したりすることには、いかなる意味があるのだろうか。
まず第一に、民族音楽は、ともすると偏りがちである日本人の音楽観をもう一度考え直させるきっかけを与えるという意義をもつ。従来の平均的な日本人の音楽観においては、音楽というと西洋の古典音楽か欧米のポピュラー音楽がその大部分を占め、日本の古典音楽やアジア、アフリカ、オセアニアなどの各地域の音楽はほとんど視野に入ってこなかった。こうした状況のなかで民族音楽に接することは、その音楽体験に幅をもたせ、ひいては音楽観の転換を促すことになるであろう。事実、最近広く親しまれるようになってきたインドやインドネシア、ラテンアメリカなどの音楽を愛好する人々から、それらの音楽に接したときから音楽観や人生観が変わってしまったと聞くことは非常に多い。世界にはさまざまな音楽文化が存在しているが、それらを等しく価値のあるものとして認め、かつそれらに親しく接することは、現在の日本人にとっていちばん必要なことであろう。そして、こうした体験が今後の日本の新しい音楽創造にかならずや貢献すると思われる。
第二に、民族音楽に親しく接することは、単に音楽に限らず、広く異文化の理解につながっていくことがあげられる。さまざまな民族音楽に接していると、単に旋律の美しさやリズムのおもしろさなどだけではなく、その音楽を担っている人々の生活や思考などにも自然と興味が沸いてくる。また歌詞の内容やその音楽の演じられる文脈などから、それらを教えられることも多い。そうしたものを手掛りに、いっそう深い文化の理解が可能になると思われる。国際化の叫ばれる昨今、今日ほど異文化の存在を認め、それを理解し、それを認め合う努力をしなければならない時代はないであろう。その意味で、民族音楽を通じての異文化理解は重要性をもってくるのである。ただしここで注意しておかなければならないのは、よくいわれるように「音楽は世界の共通語」ではかならずしもないことである。確かに、たとえことばがわからなくても音楽の訴えてくるものに感動したりする経験はだれにでもあるものだが、その一方で、その土地の言語を習得し、生活様式や慣習、世界観などを深く理解したあとでないと、理解することのできない音楽も存在する。たいせつなことは、表面的な類似にとらわれるのではなく、むしろ違いのほうに関心を向け、その違いを生み出しているものはなんであるかを探求することである。その探求によってこそ異文化の音楽および異文化一般の理解が深まることになろう。
第三に、民族音楽が音楽教育に貢献する可能性があげられる。現在の日本の音楽教育が、音楽界や音楽生活の実情とかけ離れていることは周知のとおりである。そうしたなかで、いままで述べてきたような意義をもつ民族音楽を導入してみることは大きな意味をもつ。ただし、単にシタールの初歩をマスターしたり、ガムランを演奏できるようになるだけでは、従来のピアノやオルガンの導入と変わらないことになってしまう。前述のように、音楽を担う文化的背景などの理解も同時になされなければならない。そして重要なことは、一つの音楽に偏らないように留意すべき点であろう。なぜならば、民族音楽の導入は、なによりも音楽の多様性を知らしめることにあるからである。いずれにしても、音楽教育の現場で民族音楽に接する機会が与えられることは、今後の日本の音楽の発展に強い刺激を与えることになろう。
[田井竜一]
『藤井知昭・水野信男・山口修・櫻井哲男・塚田健一編『民族音楽概論』(1992・東京書籍)』▽『柘植元一・塚田健一編著『はじめての世界音楽―諸民族の伝統音楽からポップスまで―』(1999・音楽之友社)』▽『柘植元一著『世界音楽への招待――民族音楽学入門』(1991・音楽之友社)』▽『徳丸吉彦著『民族音楽学理論』(1996・放送大学教育振興会、NHK出版)』▽『藤井知昭監修、櫻井哲男・谷本一之・塚田健一・水野信男・森田稔・山田陽一編『民族音楽叢書』全10巻(1990~1991・東京書籍)』▽『蒲生郷昭・柴田南雄・徳丸吉彦・平野健次・山口修・横道萬里雄編『岩波講座 日本の音楽・アジアの音楽』全7巻、別巻2巻(1988~1989・岩波書店)』
この語はethnic musicの訳語として近年広く用いられるようになった(この語が日本の国語辞典に採用されたのは昭和50年代)が,その意味するところは一義的ではない。民族音楽とは本来〈共通の言語・文化をもつ人の集団(=民族)に固有な音楽〉という意味であるから,広義にはJ.S.バッハの作品も竹本義太夫の浄瑠璃もビートルズの音楽も民族音楽と呼ぶことができるが,実際にはこれらは除外される。現在日本で〈民族音楽〉と呼ばれているものは,外国の諸民族の音楽で,欧米の古典音楽と大衆音楽を除外する。日本の伝統音楽や大衆音楽は一般に民族音楽とは呼ばない。言い換えれば,日本以外の非欧米の伝統音楽を民族音楽と呼んでいることが多い。
歴史的にこの語は欧米で内外の異民族,とりわけ,異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多かった。したがってイギリス人やドイツ人が自ら(多数を占めている民族)の音楽を民族音楽と呼ぶことはなかったのである。しかし,中国語や朝鮮語では〈民族音楽〉の語はむしろ自民族の伝統音楽ないしそれに基づいて作曲された新しい音楽を指し,日本語の〈民族音楽〉とは対照的である。〈民族楽器〉や〈民族舞踊〉の〈民族〉が意味するところもほぼこれに準ずる。ただし,民俗音楽の意味で〈民族音楽〉と表記するのは誤用である。
執筆者:柘植 元一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…たとえばアフリカやオセアニアには,この語を使わないのが普通である。そのため,一つの民族のもつ音楽という意味で,民族音楽ethnic musicの方が使われる。したがって,どの民族や文化も,民族音楽はもつが,民俗音楽をもつとは限らない。…
※「民族音楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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