田丸稲之衛門(読み)たまる・いなのえもん

朝日日本歴史人物事典 「田丸稲之衛門」の解説

田丸稲之衛門

没年:慶応1.2.4(1865.3.1)
生年:文化2(1805)
幕末天狗党(筑波勢)の首領となった尊攘派水戸藩士。諱は直允,稲之衛門と称す。父は山国共綿。田丸直諒の養子。天保10(1839)年,天保検地の際の縄奉行,弘化1(1844)年家督相続し,嘉永2(1849)年書院番組頭,安政5(1858)~7年の戊午の密勅返納問題では返納に反対し,同7年に左遷,文久3(1863)年に町奉行元治1(1864)年,激派の藤田小四郎らと会談,筑波山挙兵大将になることを承諾,3月に挙兵,藩主目代松平頼徳の軍と共に諸生党軍と交戦,頼徳軍投降後,幕府軍,諸生党軍に敗北。10月,武田耕雲斎をいただいて上京し一橋慶喜に訴えようとしたが,途中で金沢藩に降伏,幕命により越前国(福井県)敦賀で斬罪。

(吉田昌彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田丸稲之衛門」の意味・わかりやすい解説

田丸稲之衛門
たまるいなのえもん
(1805―1865)

幕末期の志士。水戸藩士山国弥左衛門(やざえもん)の子、田丸直諄(なおあき)の養子。名は直允(なおまさ)。書院番組頭、目付(めつけ)を経て町奉行(ぶぎょう)。藩の天保(てんぽう)改革に功績あり。藩主徳川斉昭(なりあき)失脚中はその雪冤(せつえん)運動に挺身(ていしん)、1864年(元治1)藤田小四郎(こしろう)らと筑波(つくば)山に尊王攘夷(じょうい)を旗印に挙兵、筑波天狗(てんぐ)党の総帥となり、各地に転戦したが利なく、武田耕雲斎(こううんさい)らとともに上洛(じょうらく)する途中、越前(えちぜん)国(福井県)新保(しんぼ)で加賀藩に降伏、敦賀(つるが)で刑死。その性質は実直、軍学に通じていたという。

[秋山高志]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田丸稲之衛門」の解説

田丸稲之衛門 たまる-いなのえもん

1805-1865 幕末の武士。
文化2年生まれ。山国(やまぐに)兵部の弟。常陸(ひたち)水戸藩士。尊攘(そんじょう)派。目付,町奉行などをつとめる。元治(げんじ)元年藤田小四郎らと筑波(つくば)山で挙兵,天狗(てんぐ)党の総帥となり,各地を転戦。京都にむかう途中,加賀金沢藩に降伏し,2年2月4日越前(えちぜん)(福井県)敦賀で処刑された。61歳。名は直允(なおまさ)。

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世界大百科事典(旧版)内の田丸稲之衛門の言及

【天狗党の乱】より

…水戸藩主徳川斉昭の下で改革政治に登場した者が天狗と呼ばれ,尊攘激派を中心とした天狗党は,保守派とくに諸生党と激しく対立した。1863年(文久3)8月18日の政変で尊攘運動が挫折すると,天狗党の藤田小四郎らは幕府に攘夷の実行を促すため,田丸稲之衛門を総帥として翌64年3月27日筑波山に挙兵した。当初攘夷祈願のため日光に向かうが,はじめから軍資金不足に悩まされ,近在の諸藩や豪農商に金穀を強要することが多かった。…

※「田丸稲之衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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