日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛信尋」の意味・わかりやすい解説
近衛信尋
このえのぶひろ
(1599―1649)
江戸前期の公卿(くぎょう)。後陽成(ごようぜい)天皇の第4皇子(二宮)。母は中和門院(ちゅうわもんいん)(近衛前久(さきひさ)の女(むすめ)、前子(さきこ))。関白近衛信尹(のぶただ)の養嗣子となり、1605年(慶長10)8月元服。翌年5月従三位(じゅさんみ)に昇り公卿に列し、1612年4月内大臣。1614年正月右大臣、1620年(元和6)正月左大臣に転任。1623年閏(うるう)8月関白となる。1629年(寛永6)7月関白・左大臣を辞し、1645年(正保2)3月出家し応山と号す。後水尾(ごみずのお)天皇の弟として宮廷文化の一翼を担い、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、一絲文守(いっしもんじゅ)、金森宗和(かなもりそうわ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)らとの交流を通して各分野、階層にこれを伝えた。書は養父信尹の三藐院(さんみゃくいん)流を能(よ)くし、茶は織部の流れを汲(く)み、連歌では「梧」の一字名を用い佳作が多い。日記は『本源自性院記(ほんげんじしょういんき)』(『史料纂集』、近衛通隆等校訂・1976・続群書類聚完成会)として刊行されている。記録期間は1621年(元和7)から1643年(寛永20)までの本記、および1623年閏8月より1649年(慶安2)6月にいたる19点の別記。
[橋本政宣]
『橋本政宣著「近衛家歴代の遺書について――政家・信尹・信尋・尚嗣・基煕」(『古文書研究 41・42合併号』所収)』