桃山時代から江戸初期にかけての公卿(くぎょう)。本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と並んで寛永(かんえい)の三筆の一人。父は前久(さきひさ)(法名は龍山)。初名は信基(のぶもと)、のちに信輔(のぶすけ)と改め、そして30代なかばで信尹と名のった。三藐院(さんみゃくいん)の院号で親しまれる。摂関(せっかん)家の嫡男にふさわしく、21歳ですでに従(じゅ)一位左大臣に上ったが、1594年(文禄3)30歳のとき薩摩(さつま)へ配流となる。先の豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵に従軍しようと肥前名護屋(なごや)の本営に赴いた結果であった。やがて還任(げんにん)し、関白・氏長者となり、三宮に準じられた。彼は書状をはじめ多数の筆跡を残しているが、その力強い運筆による筆線は、潔く、豪快で、その人柄を彷彿(ほうふつ)とさせる。その書風は院号を冠して三藐院流、あるいは近衛流とよばれ、多くの追随者を輩出した。日記『三藐院記』を伝えている。養嗣子(ようしし)信尋(のぶひろ)(後陽成(ごようぜい)天皇第4皇子で、母は信尹の妹)は、信尹に酷似する書を残す。
[尾下多美子]
(島谷弘幸)
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安土桃山時代の公卿。関白前久の男。初名信基,信輔。法号三藐院(さんみやくいん)。1577年(天正5)閏7月織田信長の加冠により元服。85年5月左大臣となり関白職をも望んだが,羽柴秀吉にこれを奪われる。94年(文禄3)4月秀吉の上奏により勅勘を受け薩摩に流され,96年9月帰京。1601年左大臣に還任,05年関白,氏長者となる。能書家として知られ,後世,その書風を三藐院流と称して,本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに寛永の三筆とたたえている。
執筆者:橋本 政宣
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…ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611‐84),即非(そくひ)(1616‐71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。…
…安土桃山時代・江戸初期の公家近衛信尹(のぶただ)の日記。1592年(文禄1)より1606年(慶長11)までの日次記(ひなみき)と1585年(天正13)の〈羽柴秀吉関白宣下記〉以下の別記11点がある。…
…伏見宮尊朝法親王は青蓮院流でもとくに尊朝流と呼ぶ名筆で知られる。公卿では青蓮院流から近衛流を創始した近衛前久(さきひさ)があり,とくにその子近衛信尹(のぶただ)は強い筆線で大字の仮名に異色の書風を現出し,三藐院(さんみやくいん)流と称され,江戸初期の本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに〈寛永の三筆〉と呼ばれる。その大字屛風は当時盛行した障壁画に伍して和様の書を迫力ある作品にしあげている。…
…18世紀以降カツオ漁業の基地としても知られ,幕末・明治初期が最盛期だった。また1594年(文禄3)には前左大臣近衛信尹(のぶただ)が坊津へ配流され,2年後赦免されるまで逗留したので,関連した史跡がある。【三木 靖】。…
※「近衛信尹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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