コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

近衛信尹 このえ のぶただ

百科事典マイペディアの解説

近衛信尹【このえのぶただ】

桃山時代の公卿(くぎょう),書家。官は関白にまでのぼり,准三后となった。三藐(さんみゃく)院は諡号(しごう)。書は青蓮院(しょうれんいん)流張即之を学んで,低俗に堕していた当時の和様新生面を開いて三藐院流と称し,後世,本阿弥光悦松花堂昭乗とともに寛永の三筆とうたわれた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近衛信尹 このえ-のぶただ

1565-1614 織豊-江戸時代前期の公卿(くぎょう)。
永禄(えいろく)8年11月1日生まれ。近衛前久(さきひさ)の子。豊臣秀吉・秀次のため関白になれず,天正(てんしょう)20年左大臣を辞す。文禄の役の際,朝鮮にわたろうとして後陽成天皇の怒りをかい,薩摩(さつま)(鹿児島県)に配流(はいる)となる。のちゆるされ,慶長10年関白,氏長者。書にすぐれ「寛永の三筆」のひとりにかぞえられた。慶長19年11月25日死去。50歳。初名は信基,信輔。号は三藐(さんみゃく)院。日記に「三藐院記」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

近衛信尹

没年:慶長19.11.25(1614.12.25)
生年:永禄8.11.1(1565.11.23)
桃山時代公家。父は関白近衛前久,母は家女房。初名は信基。のち信輔,信尹と改名した。三藐院と号す。文禄の役(1592~96)の際,朝鮮に渡るべく独断で肥前(佐賀県)名護屋に乗り込んだが果たせず,後陽成天皇の勅勘をこうむり薩摩(鹿児島県)坊津に配流された。慶長1(1596)年に許され,以後順調に昇進を遂げ,10年には関白・氏長者になった。大徳寺の春屋宗園に参禅し,古渓宗陳や沢庵宗彭らと親交があった。また,茶道,歌道,書をよくしたが,ことに書は「寛永の三筆」のひとりとして知られる。伝統的な青蓮院流書法に,私淑した藤原定家の書風を加え,さらに信尹独自の個性を加味した,力強い筆力で速書きの豪放な書風を確立した。近衛流,三藐院流として,生存中から多くの人々に愛好され,嫡男信尋をはじめとする公家階層のみならず,武将や町人層にまで広まった。<参考文献>小松茂美『日本書流全史』

(島谷弘幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

このえのぶただ【近衛信尹】

1565‐1614(永禄8‐慶長19)
安土桃山時代の公卿。関白前久の男。初名信基,信輔。法号三藐院(さんみやくいん)。1577年(天正5)閏7月織田信長の加冠により元服。85年5月左大臣となり関白職をも望んだが,羽柴秀吉にこれを奪われる。94年(文禄3)4月秀吉の上奏により勅勘を受け薩摩に流され,96年9月帰京。1601年左大臣に還任,05年関白,氏長者となる。能書家として知られ,後世,その書風を三藐院流と称して,本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに寛永の三筆とたたえている。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

このえのぶただ【近衛信尹】

1565~1614) 安土桃山・江戸初期の公家。関白。号、三藐さんみやく院。前久の子。書道に優れ、近衛流を興した。寛永の三筆の一。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近衛信尹
このえのぶただ

[生]永禄8(1565).京都
[没]慶長19(1614).11.25. 京都
江戸時代初期の公家,書家。太政大臣前久 (さきひさ) の子。初名は信基のち信輔,さらに信尹と改めた。従一位左大臣兼近衛大将。文禄2 (1592) 年薩摩国に配流されたが,慶長1 (96) 年赦免されて帰京。出家して法名は三藐院 (さんみゃくいん) 。和歌,連歌,書画に長じ,特に書は本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称され,近衛流 (三藐院流) を完成した。書風は筆当りがきつく,癖の多い男性的なもので,低俗化していた当時の和様書道界に清新の気を与え,一般的にも多くの流布をみた。主要作品『三藐院記』『初瀬山屏風絵賛』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近衛信尹
このえのぶただ
(1565―1614)

桃山時代から江戸初期にかけての公卿(くぎょう)。本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と並んで寛永(かんえい)の三筆の一人。父は前久(さきひさ)(法名は龍山)。初名は信基(のぶもと)、のちに信輔(のぶすけ)と改め、そして30代なかばで信尹と名のった。三藐院(さんみゃくいん)の院号で親しまれる。摂関(せっかん)家の嫡男にふさわしく、21歳ですでに従(じゅ)一位左大臣に上ったが、1594年(文禄3)30歳のとき薩摩(さつま)へ配流となる。先の豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵に従軍しようと肥前名護屋(なごや)の本営に赴いた結果であった。やがて還任(げんにん)し、関白・氏長者となり、三宮に準じられた。彼は書状をはじめ多数の筆跡を残しているが、その力強い運筆による筆線は、潔く、豪快で、その人柄を彷彿(ほうふつ)とさせる。その書風は院号を冠して三藐院流、あるいは近衛流とよばれ、多くの追随者を輩出した。日記『三藐院記』を伝えている。養嗣子(ようしし)信尋(のぶひろ)(後陽成(ごようぜい)天皇第4皇子で、母は信尹の妹)は、信尹に酷似する書を残す。[尾下多美子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典の解説

近衛信尹 (このえのぶただ)

生年月日:1565年11月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の公家
1614年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の近衛信尹の言及

【三筆】より

…ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611‐84),即非(そくひ)(1616‐71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。…

【三藐院記】より

…安土桃山時代・江戸初期の公家近衛信尹(のぶただ)の日記。1592年(文禄1)より1606年(慶長11)までの日次記(ひなみき)と1585年(天正13)の〈羽柴秀吉関白宣下記〉以下の別記11点がある。…

【書】より

…伏見宮尊朝法親王は青蓮院流でもとくに尊朝流と呼ぶ名筆で知られる。公卿では青蓮院流から近衛流を創始した近衛前久(さきひさ)があり,とくにその子近衛信尹(のぶただ)は強い筆線で大字の仮名に異色の書風を現出し,三藐院(さんみやくいん)流と称され,江戸初期の本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに〈寛永の三筆〉と呼ばれる。その大字屛風は当時盛行した障壁画に伍して和様の書を迫力ある作品にしあげている。…

【坊津[町]】より

…18世紀以降カツオ漁業の基地としても知られ,幕末・明治初期が最盛期だった。また1594年(文禄3)には前左大臣近衛信尹(のぶただ)が坊津へ配流され,2年後赦免されるまで逗留したので,関連した史跡がある。【三木 靖】。…

※「近衛信尹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

近衛信尹の関連キーワード青蓮院宮尊純法親王猪苗代兼与三藐院信尹散らし書き阿蘇惟賢生年月日和久是安小松茂美二条昭実中沼左京和久是庵津田弁作近衛信尋青蓮院定家流木母寺舟橋家犬枕連歌書画

今日のキーワード

天網恢恢疎にして漏らさず

《「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

近衛信尹の関連情報