ヘラクレイオス
Hērakleios
生没年:575ころ-641
ビザンティン帝国の皇帝。在位610-641年。カルタゴ総督の息子として暴君フォーカスの討伐軍を指揮,同帝の退位後即位し,ヘラクレイオス朝(610-695,705-711)を興す。バルカンのスラブ,アバール,アナトリアのペルシアに挟まれ苦境にあった帝国の救出を図る。ホスロー2世治下のペルシア遠征を実行(622-628),ニネベの戦(627)で勝利を収め,翌年首都クテシフォンを陥れペルシア戦役に終止符をうった。一方スラブとアバールの連合軍はペルシア軍と相呼応するがごとく皇帝不在のコンスタンティノープルを襲った(626)が,二重の城壁に阻まれて失敗。これ以後バルカンのアバール族の統率力は急速に衰えていった。しかしアラビア半島に興ったイスラム教徒は瞬くまに北上し,カリフ,ウマル1世のときビザンティン領内に侵入した。シリアのヤルムークの戦(636)に敗れたビザンティン帝国は数年のうちにシリア,メソポタミア,エジプトを失い,ヘラクレイオスのペルシア遠征の成果は一瞬のうちに崩壊した。同帝の時代は内外の混乱が原因で従来のローマ的支配体制が揺らぎビザンティン的支配体制(中央のロゴテシア制,地方のテマ制)の確立の端緒が開かれた時代と言える。また公用語もラテン語からギリシア語に移行した。ペルシア戦役により帝国領となったアナトリアをはじめとする諸異端派の離反を防ぐため《エクテシスEkthēsis》なる信仰提示が発布(638)されるが,正統派と異端派の融和の実効があがらぬうちに異端派の人々はイスラムの支配下に入っていった。
執筆者:和田 廣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のヘラクレイオスの言及
【エルサレム】より
…ビザンティン帝国のテオドシウス2世の妃エウドキアEudociaはエルサレムに定住し(444‐460),この動きを促進した。614年ササン朝ペルシアの[ホスロー2世]の軍がエルサレムを占領し,イエス磔刑に用いられたと伝えられる十字架を持ち去る事件がおき,629年ビザンティン皇帝[ヘラクレイオス]が十字架を奪還してエルサレムへの勝利の帰還をとげるが,イスラム教徒のアラブ軍がエルサレムを包囲するのは,それからわずか8年後の637年であった。 638年,エルサレム総大主教ソフロニウスSophroniusはカリフの[ウマル1世]に降伏し,カリフは自ら同市に赴いた。…
【十字架伝説】より
…キリストの十字架はその後コンスタンティヌス帝の母ヘレナFlavia Julia Helena(257ころ‐337ころ)により発見され,彼女の死後その断片が聖十字架または真の十字架Vera Cruzの聖遺物として各地に広がった。伝説にはこのほか,モーセの杖(つえ)の奇跡,ダビデの庭への若木の植え替え,ヘラクレイオス帝による聖十字架の奪還などを含む,叙述の異なる数多くの異説がある。 これらの伝説は西洋世界に導入されて美術作品の主題となった。…
【シリア】より
…ササン朝のホスロー2世はシリア,エジプトをビザンティン帝国から一時奪い占領した。622年以来ビザンティン皇帝ヘラクレイオスは反撃に転じ,ササン朝を追い出し,旧領土を回復したが,長い戦火にシリア住民たちはビザンティン帝国に対しても冷ややかな感情しかもたなくなっていた。
【アラブの征服】
アラブが大挙してシリアに進出してきたのは634年になってからのことであるが,すでにそれ以前にシリアにおけるアラブの浸透は始まっていた。…
【ビザンティン帝国】より
…6世紀末~7世紀初め,事態は極度に悪化した。 登極してこの危機に直面した[ヘラクレイオス](在位610‐641)はペルシア大遠征を試みて(622‐628),占領された東部諸属州を奪回した。帝の不在中にペルシアと結んだアバールのコンスタンティノープル包囲(626)は失敗し,アバール大国家は壊滅した。…
【ユダヤ人】より
…
[ヨーロッパ・キリスト教社会とユダヤ教徒]
キリスト教世界のなかでもビザンティン帝国では,テオドシウス2世(在位408‐450)およびユスティニアヌス1世(在位527‐565)以来,ユダヤ教徒はいっさいの官職から排除され,キリスト教徒を農奴として用いることを禁じられ,事実上,農耕に従事することが不可能となった。さらにヘラクレイオス(在位610‐641)は彼らに対しキリスト教への改宗を強制するにいたった。 これに対しグレゴリウス1世(在位590‐604)以来のローマ教皇は,原則として,これとは異なった対応を示した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」