コンスタンティノープル
Constantinople
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改訂新版 世界大百科事典
「コンスタンティノープル」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティノープル
Constantinople
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「コンスタンティノープル」の意味・わかりやすい解説
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世界大百科事典(旧版)内のコンスタンティノープルの言及
【イスタンブール】より
…古代ギリシア・ローマ時代はビュザンティオンByzantion,ビュザンティウムByzantium,ビザンティン時代はコンスタンティノポリスKōnstantinoupolis∥Constantinopolisの名で知られ,トルコ語で正しくはイスタンブルとよばれる。コンスタンティノポリスの英語名コンスタンティノープルConstantinopleも旧称として広く使われている。
【古代ギリシア・ローマ時代】
ボスポラス海峡のヨーロッパ側南端部,北を金角湾,南をマルマラ海で挟まれた半島のさき,現代のトプカプ宮殿の地点に,前659年(カエサレアのエウセビオス伝承)ないし前668年(ヘロドトス伝承)に,メガラ人により,ギリシア人植民市として建設されたといわれる。…
【ビザンティン美術】より
…東ローマ帝国の美術で,厳密にいえば,年代的には330年のコンスタンティノープル開都から15世紀半ば(1453)にイスラム教徒に攻略されるまでが,その時期であり,地域的には,帝国領域内(時代によって境界線は著しく変動)に限定される。しかしこの厳密な意味でのビザンティン美術の時間的・空間的周辺には,同じキリスト教美術に属するものとしても[コプト美術],シリア美術,[アルメニア美術],ゲオルギア美術,イタリア美術(13世紀まで),ロシア美術などがあり,とくにバルカン地域ではビザンティン美術の跡がつよく残っている。…
【払菻】より
…南北朝から唐代にかけての中国人がシリア,パレスティナなどのローマ帝国東方領,あるいはビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを呼んだ名称。イラン語でローマを示すフロームFrōmあるいはアルタイ諸語系のプルムPurumの類の漢字音訳であろう。…
【ローマ】より
…彼の自発的退位(305)に際して再び起こった内乱のなかからコンスタンティヌス1世とリキニウスが勝ち残り,再度(313,314)の内戦ののちコンスタンティヌス1世が単独皇帝として残った(在位306‐337)。すでにディオクレティアヌスは首都をニコメディアに移していたが,コンスタンティヌス1世はビュザンティオンの地に新首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス。現,[イスタンブール])を建設し(330),帝国の重心を東に移動させた。…
【ローマ理念】より
…しかし,アウグスティヌスによって地上のローマ帝国の呪縛から切り離されたことにより,教皇レオ1世のローマ司教座の優位権主張を経て,理念としてのローマは西ローマ帝国滅亡後も延命しえたといえよう。
[西ローマ滅亡以後のローマ理念]
330年ローマ帝国の新首都となったコンスタンティノープルは,〈第二のローマ〉〈新しいローマ〉と呼ばれた。西ローマ帝国が存続している間は古いローマの権威が優先していたが,西の帝国消滅後は新ローマの支配は全世界に及び,永遠のものだと歌われた。…
※「コンスタンティノープル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」