日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンスタンティノープル」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティノープル
こんすたんてぃのーぷる
Constantinople
ビザンティン帝国(330~1453)の首都。現在のイスタンブール。ラテン読みはコンスタンティノポリスConstantinopolis。町は黒海と地中海とを結ぶボスポラス海峡にあり、アジアとヨーロッパを結ぶ接点として古来より有名。町の前身であるビザンティオンByzantionは、ギリシア植民市時代、さらにローマ支配下の自由都市時代に、軍事、経済上の拠点として栄えた。リキニウスを破ってローマ帝国の単独皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝)は、いわばその戦勝記念碑としてこの地に「第二のローマ」を建設し、町を「コンスタンティノポリス」(コンスタンティヌスの都)と命名し、これをローマ帝国東方領の行政首都とした。
町は、その後、西のローマとは対照的に飛躍的に発展し、その最終的規模は、テオドシウス2世治下の二重の城壁の完成(413)をもって定まった。ニカイアの亡命政権時代(1204~61)を除き終始ビザンティン帝国の首都であり続けたこの町(約12平方キロメートル)は、盛時には人口100万を擁したといわれる。三方を城壁で囲まれ、ハリチ湾(金角湾)の入口も鉄鎖で封鎖することができ、市内には7か所の軍の駐屯地を備え、まさに難攻不落の要塞(ようさい)都市であった。事実、町は1204年の第4回十字軍の攻撃に屈するまでは、800年間もの間よく外敵の来襲を退けたのである。さらに、11の港、大小二つの灯台をもつ海上貿易の拠点でもあり、16の名のある広場、13の回廊、3基のローマ水道、21の貯水槽、24の大浴場、6か所に及ぶ穀物貯蔵庫、5か所のと畜場や多くのパン工場をもち、下水設備に街路の照明設備までもが国費でまかなわれていた。5万の観衆を擁した大競技場、三つの劇場、体育施設もあり、病院、孤児院、養老院、救貧院は35を数えた。国政の中心である町は、大宮殿のほかに九つの宮殿を、また元老院、裁判所、国税局、市総督公廷、監獄、貨幣鋳造所など22の公共建築物を所有し、同時代の列国にその類例をみない大都会であった。
ギリシア正教の中心でもある町は、ハギア・ソフィアをはじめとし、500に及ぶ教会と約350に及ぶ大小の修道院をもち、ギリシア正教圏の盟主の地位を保っていた。教育施設には国立の大学をはじめ、教会や修道院付属の学校、私塾が多くあり、ギリシア時代以来の教育制度も民族移動の嵐(あらし)に巻き込まれることもなく存続していた。この施設と制度を背景に、ギリシア文化の伝統の保護、育成を促進し、絢爛(けんらん)たるビザンティン文化の花を咲かせるのである。その一端が、後のイタリア・ルネサンスの開花に多くの刺激を与えたことはよく知られている。全中世を通じての一大文化都市でもあったのである。
また、首都は、西のローマと同じく特別行政区であった。町の管理と維持、すなわち市政一般、刑事および民事における裁判、治安維持、商工業の保護育成などが市総督の手にゆだねられていた。この繁栄を誇った町が防衛軍の10倍の兵力をもって襲うオスマン帝国のスルタン、メフメト2世の軍勢に敗れたのは1453年5月29日のことであった。ビザンティン帝国の首都は、スルタンによりイスタンブールと改名され、以後オスマン帝国の首都となった。
[和田 廣]