ペルシア(英語表記)Persia

翻訳|Persia

改訂新版 世界大百科事典 「ペルシア」の意味・わかりやすい解説

ペルシア
Persia

おもに欧米で用いられてきたイランの別称。もともとはアケメネス朝が拠ったイラン南西部の一地方名パールサPārsa(現代ペルシア語ではアラビア語化されたファールスFārsとして残っている)に由来するが,アケメネス朝のイラン高原統一によってイラン全体を含む概念に拡大された。アケメネス朝期のギリシア史家の用いたペルシスPersisが,ラテン語形ペルシアを経て,ヨーロッパに入ったものである。

 原語パールサは,その地方に北方より移住,定着した古代イランの部族名パルスアParsuaに基づくとされる。パールサは,アケメネス朝の創始者キュロス2世のパサルガダエ王宮,ダレイオス1世の造営した大遺跡ペルセポリスのあるアケメネス朝の故地であり,またアケメネス朝の栄光再興をめざしたササン朝が興ったのもこの地である。行政的・軍事的・経済的見地からは,歴史的にも後背地の位置にありながら,文化的・宗教的には一貫してイスラム以前のイランの中心地であった。

 パフラビー朝イランが,1935年に国号をイランとすることを宣言して以来,ペルシアは,イスラム以前のイランを指すのが普通になりつつある。ペルシアはあくまで他称であって,イラン人が自分たちの国をこの名称で呼んだことはなかった。自称はイーラーンĪrān(本来〈アーリヤ人の国〉の意)である。なお,イランの国語をペルシア語(ファールシー)というのは,それが王朝の地パールサ地方の言語を基盤として発達してきた背景による。イラン語というときは,ペルシア語をも含む,イラン系の言語全体(すなわちイラン語派)を意味する。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペルシア」の解説

ペルシア
Persia

イランの旧称。国名は1935年以降「アーリヤ人の故国」を意味するイランに改称された。ペルシアとは,元来イラン南部に位置するパールス(アラビア語化して現在ファールスと呼ばれる)地方の名に由来し,アケメネス朝の発生地でもあり,ギリシア語に採り入れられて,同朝の都はペルセポリス(ペルシアの都市)と呼ばれた。1957年以降イラン政府は外国語に限り,ペルシアの国名を再び用いることを許可した。国語はペルシア語(ファールシー)であって,イラン語とはいわない。イラン,ペルシアともに同義語として用いられることもあるが,ペルシアの名称は今日ではむしろ文化的連想を起こさせる。例えばペルシア文学ペルシア美術・芸術,ペルシア絨毯(じゅうたん)などである。イランの名称は新しいものではなくて,サーサーン朝は国名としてエーラーン・シャハル(イランの国)を用いた。それゆえイランは古い語の継続または復活ともいえよう。文化の面においては,ペルシア人はイスラーム文化形成の有力な貢献者として,神学,哲学,言語学,歴史学,地理学,医学,天文学,数学,理化学など諸学の発展に大いなる寄与をした。思想的独創性に富み,古来のゾロアスター教がすたれたのち,イスラームの正統派(スンナ派)をそのまま受容することなくシーア派を採用し,文学面では9世紀後半から15世紀末までに,ペルシア文学の黄金時代が築かれ,幾多の優れた詩人文人が輩出した。芸術面では建築,陶器,織物,絨毯,絵画,書道,金属器具などにおいて,アケメネス朝の昔から,特にイスラーム期において,豊かな芸術的才能が遺憾なく発揮された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ペルシア」の解説

ペルシア
Persia

現在のイランの古称
この名は,ペルシア湾東方に位置したアケメネス朝の故地パールス(現ファールス)のギリシア語に由来し,ペルシア人自身はイラン(アーリア族の発祥地の意)と呼ぶ。前2000年紀初めインド−ヨーロッパ語族が移動してきて,その一部は前7世紀後半にメディアを建国したが,前550年アケメネス朝がこれを倒し,ダレイオス1世のとき,大帝国を建設した。前330年アレクサンドロス大王はこれを滅ぼしたが,のちセレウコス朝が支配し,前248年ごろにはパルティアが成立した。後226年にササン朝がイラン民族の国家を再興し,ゾロアスター教を国教として独自の文化を発展させた。642年以後はイスラーム勢力の支配下にはいった。9世紀半ばごろ,サーマーン朝がおこったが,10世紀末以後,ガズナ朝・セルジューク朝などのトルコ系諸王朝に征服され,13世紀後半からイル−ハン国に,その後はティムール朝に支配された。この長期間の異民族による支配ののち,1502年サファヴィー朝(シーア派)の下で民族復興の機を迎え,オスマン帝国(スンナ派)と対立しながらイラン近世史上の黄金時代を現出した。18世紀にはナーディル=シャーによる征覇のほかは分裂が続き,1779年にカージャール朝の成立をみたが,イギリス・ロシア両勢力により半植民地化(1907年英露協商)された。これに対し,国民間に覚醒の機運が生まれ,1906年立憲制が実現した。第一次世界大戦には中立を宣言したが,イギリス・ロシアとドイツ・トルコの間にはさまれて国土は戦場化し,混乱は激しかった。1925年にレザー=ハーン(レザー=シャー=パフレヴィー)が議会の推挙により王となってパフレヴィー朝を創始し,1935年国名をイランと改めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルシア」の意味・わかりやすい解説

ペルシア
ぺるしあ
Persia

イランの旧名。1935年イランと改称。イラン南西部のファールス州はアケメネス朝時代にはパールサとよばれたが、同時代のギリシア人によってペルセースまたはペルシアーと音写された。パールサはイランの一州にすぎなかったが、政治と文化の中心であったためイランを代表する名称となった。パールサは本来イランの部族名であった。イラン人がカスピ海西岸を経て南下する途中、パルスアシュやパルスマシュという地名を残している。これらの地名はメソポタミアの記録にみられる。中世ペルシア語ではペルシア人、ペルシア語をパールシーグといったが、中国では波斯(パルシグ)と音写された。インドのムンバイ(ボンベイ)にいるゾロアスター教徒パールシー人の呼称はこれに由来している。近代ペルシア語ではアラビア語表記法に従って、ペルシア語をファールシー、トルコ人・アラブ人に対するイラン人のことをファールスとよんでいる。

[井本英一]

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百科事典マイペディア 「ペルシア」の意味・わかりやすい解説

ペルシア

イラン

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世界大百科事典(旧版)内のペルシアの言及

【ペルシア帝国】より

…彼らは当時ウルミエ(レザーイエ)湖南西部にいたが,その後ザーグロス山脈を南下し,前7世紀前半にエラムのアンシャン地方に入って定住した。この地はやがて彼らの名にちなんでパールサPārsa(ギリシア語ペルシスPersis,ラテン語ペルシアPersia)と呼ばれた。現在のファールスFārs州である。…

【イラン】より

…正式名称=イラン・イスラム共和国Jumhūrī‐ye Eslāmī‐ye Īrān,Islamic Republic of Iran面積=164万8000km2人口(1996)=6223万人首都=テヘランTeheran(日本との時差=-5.5時間)主要言語=ペルシア語,アゼルバイジャン語,クルド語通貨=イラン・リアルIranian Rial西アジアの東部を占め,西はトルコ,イラク,北はアルメニア,アゼルバイジャン,トルクメニスタン,東はアフガニスタン,パキスタンに接する共和国。
【呼称】
 イランは正しくは〈イーラーン〉と発音される。…

【波斯】より

…6世紀ころから唐代までの中国におけるササン朝ペルシアに対する音訳名。波剌斯とも書く。…

【ペルシア帝国】より

…前6世紀後半に古代オリエント世界の統一を完成し,その後およそ2世紀にわたって中央アジアからエジプトに至る広域支配を続けた帝国の称。アケメネス朝ペルシア(アケメネス朝)ともいう。
[歴史]
 ペルシア人はメディア人とともに西イラン族に属し,前1000年ころイラン高原に到来した。…

※「ペルシア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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