翻訳|Balkan
現在われわれがバルカン半島と呼んでいる半島は,古来ギリシア人の半島,ビザンティン半島,イリュリア人の半島などと呼ばれ,第1次世界大戦前には,〈ヨーロッパ・トルコ(オスマン・トルコのヨーロッパ部分)〉として一般に知られていた。バルカンという名称は,1808年にドイツの地理学者ツォイネJohann August Zeune(1778-1843)によって初めて命名されたといわれているが,近代地理学の創始者A.vonフンボルトの学説にしたがい,できるだけ政治色をもたない地名設定の方法が科学的であると考えたツォイネは,現在のスターラ・プラニナ山脈(バルカン山脈)が現地住民のあいだでバルカンと呼ばれていたところから,そのように命名したのである。のちにこのバルカンという呼名が実はトルコ語の普通名詞で〈山〉を意味することが明らかになり,ツォイネの命名にはいくたの批判が加えられ,19世紀中葉にはバルカン半島を南東ヨーロッパ半島と命名すべきだと説くドイツ人地理学者も現れたが,19世紀末ころからしだいにバルカンという名称が市民権を得るにいたった。
ツォイネがこのように命名したとき,彼はアペニノ山脈がイタリア半島に対してもつ役割と類似の性格をバルカン山脈に認めたのであるが,そのために彼はほぼ現在のブルガリア南部,マケドニア,アルバニア,ギリシアをあわせてバルカン地域とみなした。その後この概念は拡大され,ヨーロッパ部分のトルコを含めて,北はドナウ川とサバ川までの地域をバルカンと呼ぶことが多くなった。しかしバルカン地域の境界はきわめて多義的であり,スロベニア,クロアチアまでを含めて旧ユーゴスラビア全土をそれに含ませる場合もある。また狭義のバルカンの歴史と深いかかわりをもち,多くの性格を共有しているルーマニアでは,バルカンよりもむしろ南東ヨーロッパという概念が好んで用いられ,旧ワラキア,モルドバをも含めて一つの歴史的地域とみなしている。さらに多くの島嶼をもつギリシアは当然地中海世界とのつながりが強く,ギリシア全土をバルカンに含ませることには異議を唱える見方もある。
バルカン山脈のバルカン半島に対する関係は,先述のアペニノ山脈の例やあるいはピレネー山脈のイベリア半島に対する関係とよく比較される。とくに同じくイスラムの影響の強かったイベリア半島の歴史的・文化的状況は比較史研究のテーマとしても興味ある問題を含んでいる。しかしバルカンの歴史を顧みると,バルカン山脈は異民族の侵入に大きな障壁となったことはなく,むしろ先史時代から,バルカンは諸民族が往来し交錯する文明の十字路的性格をもち,決してそれ自身で閉鎖的・完結的な一地域を構成していたわけではなかった。
とくにこの地域のみを支配する単一国家が成立しなかったために,バルカンを他の諸地域に対立する独自な地域として意識する歴史的条件は長く欠如していた。たしかにバルカン地域を支配した国家としては,古代ギリシア,ローマ帝国,とくに分裂後のビザンティン帝国,オスマン帝国があり,さらに中世のバルカン国家として第1および第2ブルガリア帝国,セルビア王国,ワラキア公国,モルドバ公国などがあった。またオスマン帝国の支配期に,バルカン各地のキリスト教徒住民が連帯して蜂起した例もみられる。たとえばワラキアのミハイ勇敢公の反オスマン戦争へのバルカン諸民族の協力,バルカンに独自なハイドゥクたちのあいだの相互援助などである。しかし,バルカンの諸住民に共通の運命を担う共同体意識を喚起するうえで最も重要な役割を果たしたのは,むしろ18世紀後半から19世紀に盛んになったバルカンの民族運動であった。バルカン諸民族の政治的・経済的発展のためには,オスマン帝国支配からの離脱が第一義とみなされたから,各民族の自治・独立を求める運動のあいだには,民族主義に固有な限界を越えて協力・連帯しあう可能性が生み出された(セルビア蜂起,エテリア蜂起(エテリア),ギリシア解放戦争,さまざまなバルカン連邦構想など)。
ところが19世紀後半,バルカン諸民族が部分的にせよ自治・独立を獲得した時点から,かえってバルカン諸民族間の軋轢(あつれき)は増大し,やがてはそれがバルカン戦争を惹起したばかりでなく,彼らの狭隘な民族主義は列強の利用するところとなり,周知のように第1次大戦勃発の主要な原因になったのである(サラエボ事件)。しかし,まさにその時期にバルカン諸国の知識人・政治家のあいだから,危機意識の反映として,バルカンの平和な地域的発展を望む声が高まってきた。学問の分野ではセルビアの地理学者ツビイッチやルーマニアの歴史家ヨルガが,専門分野の相違を越えて,ほぼ同じ時期にバルカン学を志向するようになったのは,その好例である。こうして戦間期にバルカン諸国にバルカン研究所ないしは南東ヨーロッパ研究所が設立され,言語,文学,歴史,地理などの諸分野でバルカンに特殊な地域性の研究が盛んになった。もちろんバルカン概念の成立には,帝国主義的な列強のバルカン政策の成立や,第1次大戦末期から使われ始めた〈バルカン化〉,さらには〈バルカン外交〉というような言葉に反映された,おもに西欧のバルカン観などが外的な圧力として働いたことは無視できないが,しかしバルカン研究の基本的性格は,バルカン諸民族の濃厚な民族意識に裏打ちされながらも,諸問題の地域的解決を望むバルカン民衆の希求を反映させていた点にあるといえよう。
第2次大戦直後の変革期と,いわゆる冷戦期に,バルカン諸国ではしばらくバルカン研究は中断されたが,1960年代前半から再び研究所や学界が整備され今日に及んでいる。60年代前半に研究が再開されたこと自体,中ソ論争や非同盟主義の発展,国際情勢の多極化現象というような政治環境の変化とバルカン地域研究とが深いかかわりをもつことを示している。バルカンでは現在でも民族的対立の要因が払拭されてはいないけれども,他方,体制の違いを越えて各国間に相互友好条約が結ばれ,バルカンの非核武装化の提案がなされ,文化,スポーツ(たとえばバルカン諸民族のスポーツ祭典である〈バルカニアーダ〉)のレベルまで,地域的結合が進められている側面を見落としてはならない。
ここでは,このようなバルカンのもつ地域性を,歴史的叙述としてではなく,バルカン社会論として展開する。そこではまず,バルカン社会のもつ異質性,共通性,共生現象,後進性を明らかにし,最後にバルカンにおける国家および民族のもつ意味を世界史のなかで考察したい。歴史的経緯については,〈ビザンティン帝国〉〈オスマン帝国〉などのほか,それぞれの国名,地域名の項目の歴史の項で詳説されているので,参照されたい。
バルカン地域には,ヨーロッパ大陸の他の部分に比べ,比較的狭い地域に,いくつかの異系統の言語,エスニシティ,宗教,文化が併存混在し,きわめて異質的な社会を形成している。文明史的にみれば,古代オリエント文明はおもにこの地域を経由して西方へ伝達されたのであり,その意味で東西両文明の結節点に位置し,また古代エーゲ海文明や古代および中世ローマ帝国のような世界文化の中心が多くの異民族をこの地域へ引き寄せ,幾重もの移住,定住が行われたことなどが,その原因としてあげられるであろう。しかし,この異質性がとくに強調されたのは,バルカンのナショナリズムが最も強まった時期であった。20世紀に入ってからは,バルカン諸国はますます民族国家的色彩を強め,現在ではすべての国で特定のエスニック集団が圧倒的多数を占めてはいるが,異質な諸要素の密集する複雑な民族的状況は,長い外国支配の時期に培われた抵抗精神とあいまって,バルカン諸民族の民族意識,アイデンティティに深く影響した。特徴的なのは,国家形成をなしえた多数派民族のあいだでは,古代および中世における自民族の栄光の時代への追憶が彼らのアイデンティティに深く刻印されていることである。これが20世紀初めに,大ギリシア主義,大セルビア主義,大ルーマニア主義,あるいはさまざまな形態のパン・スラブ主義の思想を生み出したことはよく知られている。
たとえば現代ギリシア人の起源については,19世紀中ごろJ.P.ファルメライヤーが中世ギリシア人のスラブ化説を唱えて以来激しい論争があり,その後スラブ化説は否定されたものの,いまなお諸説に分かれている。第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領(1204)以後,ギリシア人の民族的な意識が強まったという見方が一般的であるが,しかしビザンティン帝国のギリシア化が進み,現代ギリシア語のもとをなす諸方言が現れた7~8世紀にその起源を求める学者もいる。
しかしこのような研究動向とは一応別のレベルで,現代ギリシア人のあいだでは,彼らが古代ギリシア人の末裔であるという意識が強く,連続性が強調される傾向にある。ルーマニア人の場合,原住民のダキア人と征服者ローマ人の混交民族の子孫といわれ,ルーマニア語を話すブラフVlah人の名が初めて史料に現れる10世紀以前にルーマニア人とその言語が形成されたというのが学界の定説となっている。ルーマニア人のラテン的性格については中世の年代記作者も言及しているが,自分たちが先住民族でありかつラテンの血を引くという意識が,民族運動の高揚と同時にますます強調され,それがルーマニア人のアイデンティティの特徴をなしている。ギリシア語ともラテン語とも系統の異なる言語をもつアルバニア人の場合も,初めて〈アルバノイAlbanoi〉という名が史料に現れる11世紀以前にその民族と言語が形成されたといわれているが,彼らの場合は古代イリュリア人の子孫であるという意識がその特徴をなしている。これらの例のほかに,さらに南スラブ人の場合が加わるのであるが,バルカン諸民族のアイデンティティ問題を複雑にしているもう一つの要因は,言語,エスニシティ,宗教,文化の対応関係が交錯していることである。その好例が,イスラムに改宗しながら言語はセルビア語を話すボスニア人の場合であろう。一般にオスマン帝国はイスラムへの改宗を強要しなかったといわれるが,イスラム化したアルバニア人,ギリシア人,ブルガリア人(ブルガリア南部の山岳地方に住み,ポマクPomakと呼ばれている)はいたし,またスルタンに迫害されてドブロジャ地方へ逃れ,キリスト教に改宗したトルコ人(ガガウズ)もいた。またマケドニアの遊牧民の中には,ルーマニア人のようにラテンの血を引くとされながらギリシア語を母語とするものもある。このような状況のもとで多重言語地域も諸所にみられた。
民族国家形成以後は,これらの問題はいわゆるマイノリティ(少数民族)問題として論じられるようになった。マイノリティ問題として論じられる多くは,ユーゴスラビアのコソボ(現,コソボ共和国)のアルバニア人の場合のように,隣接国家の民族が自国内ではマイノリティとして存在する場合であるが,このほかに,バルカンに母国をもたないユダヤ人やジプシー(ロマ。現在ヨーロッパで最もロマ人口が多いのは旧ユーゴスラビア,その次がルーマニアだと推定されている)の問題がある。また現在なお未解決の問題としてマケドニア問題があり,マケドニア人,マケドニア語,マケドニア地域などの諸概念について,ギリシア,ブルガリア,旧ユーゴスラビア,ルーマニアのあいだで異なった〈解釈〉が行われているところに,バルカン社会の民族問題のあり方の特徴が端的に示されているといえよう。
民族と文化に注目した場合,たしかにバルカン社会のもつ異質性,雑多性が目につくが,しかし第1次大戦直前に成立したバルカン学の主要な関心は,むしろバルカン社会のもつ共通性と諸民族間の相互影響関係に向けられていた。たとえば同じスラブ民族に属するポーランド人とブルガリア人をその外貌から見分けることはある程度できても,ブルガリア人あるいはセルビア人と非スラブ系のギリシア人あるいはルーマニア人を見分けるのは,はるかにむつかしいという日常的な事実が示しているように,言語やエスニックな相違のみを強調すると,地域的な共通性を見落とすおそれがあるのである。バルカン社会の共通性は生活様式,風俗習慣,精神文化と物質文化の諸領域に見いだされ,それは言語生活の領域にまで及んでいる。
まず生活様式の基本にある家族制度では,19世紀まで存続したセルビアのザドルーガzadrugaと呼ばれる大家族制度の例がよく知られているが,一般にバルカン諸地域の家族,氏族,氏族連合,部族のあり方には多くの類似性が指摘されており,中近世を通じて家父長的性格の強い大家族や部族が社会集団として機能しつづけたことがその特徴としてあげられる。また一つの村落が共通の祖先の名で呼ばれ,村落全体が擬制的な同族集団の形をとっていることもバルカンの村落の特徴とみなされている。村人の衣装に目を移せば,民族色や地方色はもちろん存在するが,刺繡入りの亜麻製シャツ,粗縫いの先のとがった革の短靴opinka,模様入りの革製胴着,女性の巻きスカート,おもに羊飼いが着る羊革製の長外套,飾りのついた太い革帯などに,バルカン諸地方に共通な特色を見いだすことができる。また食物,飲物についても,トウモロコシ(その到来以前はヒエ)の粉でつくられた粥(かゆ)mamaliga,キャベツやブドウの葉を用いたロール巻sarmale,羊肉の燻製pastrama,スモモ製のブランデーSlivovka,あるいはブラガbragaと呼ばれる清涼飲料水等々,バルカンの料理には共通したものが多い(その中にはオスマン支配期に中東からもたらされたものも多い)。精神生活については,キリスト教受容以前からの民間信仰の中のさまざまな精霊信仰(たとえば生後2日目に子どもの運命を宣告する精霊の信仰)のほかに,中世のバルカン各地に出没していたハイドゥク(義賊)の伝説に表現されるような弱者救済の正義感覚にもバルカン的な特色が認められる。
このような共通性は言語の領域にも及び,1930年にその著書でバルカン言語学という新分野を提唱したザンドフェルトKristian Sandfeld(1873-1942)は,バルカン諸言語間に共通の文法上・語彙上の特色を示している。彼は,たとえばバルカン諸語に借用されたトルコ語の単語をあげ,bahşiş〈チップ〉,mahalla〈町,郊外〉,çoban〈羊飼い〉などを列挙しているが,重要なのは借用語の範囲が,軍事・行政・商業用語をはじめ,職業,食物,建築,家具,衣類の名称など民衆の生活に密着した言葉に及んでいることである。このようなバルカン社会の共通性に着目するならば,バルカン諸民族の文化基層はオスマン文化,ビザンティン文化を経て,ギリシア,トラキア(ダキア),イリュリアへまでさかのぼって探求しなければならないだろう。これは異質性を強調する民族的アイデンティティとは違った,共通性に基づくアイデンティティのあり方を提示する。
バルカン地域をかつて支配したビザンティン帝国,オスマン帝国は,それぞれ当時の世界帝国であったが,その内部構造は,ビザンティン帝国と南スラブの諸民族,オスマン帝国とバルカンのキリスト教諸民族との関係をみれば明らかなように,ゆるやかな統合に基づく帝国であった。とりわけオスマン帝国は,西ヨーロッパ諸国が絶対王政から近代の国民国家への道を進んでいた時期に,イスラムに伝統的なミッレト制を維持して,キリスト教徒やユダヤ教徒に宗教的寛容と自治とを認め,そのため帝国内には多くの異質なエスニック集団が混在し,それらは民衆生活のさまざまな次元で相互に影響しあいながら,独自の地域的環境を生み出していった。たしかに支配的なオスマン文化の浸透やミッレト制に保護されたギリシア正教会(ギリシア文化)の影響の増大というような一般傾向はあるが,局地的に各地域の社会状況をみると,さまざまな階層の次元で異質なエスニック集団,言語,文化,宗教の共生現象が見いだされ,それがバルカン社会の一つの特質をもなしている。
共生現象が最も特徴的に具現されていたのはオスマン帝国の首都イスタンブールであった。1453年のコンスタンティノープルの陥落によって第二のローマはイスラム化されたが,都市の経済機能の回復のためもあって,オスマン帝国スルタン,メフメト2世(在位1444-46,51-81)はモレア半島,アナトリア,エーゲ海の島々からギリシア人を首都に誘致し,また征服のたびに新領土の住民を首都に連れてくる習わしもあって,トレビゾンド,カフカス,シリア,エジプト,セルビアなどの人びとが首都に定住するようになった。イスタンブールの人口については種々の記述のあいだに異同があるが,スレイマン1世(在位1520-66)の治世の初期には40万(うち50%がイスラム教徒,42%がキリスト教徒およびユダヤ教徒),また17世紀には60万(うち35万がイスラム教徒,25万が異教徒)という数字が残されており,首都人口の民族構成の概要を知ることができる。民族的にみれば,首都にはトルコ人のほかに,ギリシア人,アルメニア人,ユダヤ人,エジプト人(一般にアラブを指し,シリア人,イラク人などもこれに含まれた),アルバニア人,セルビア人,ワラキア人,モルドバ人,イラン人,ジプシーなどがいた。彼らはたいていはそれぞれの教会などを中心にしていくつかの地区に分かれて生活していた。ギリシア人の場合は総主教座(1601年以後はそれがファナル地区に置かれた)を中心に住み,ほかにもマルマラ海沿いにいくつかのギリシア人地区を形成していた。またスルタンがスペインを追放されたユダヤ人を保護したために,1460年ころから多数のユダヤ人が首都に定住するようになった。彼らは首都の7地区に居住して,自由業(おもに医者)のほか,商業に多くが従事し,とくに奴隷貿易は彼らの独占であった。彼らは94年に首都に最初の印刷所を設立する。アルメニア人は四つの教会をもち,その住民は東西の中継貿易に従事する富裕な商人や手工業者と,パン屋,燻製肉売り,ロバ追いなどの下層民とに二分されていた。アルバニア人はイスラム化した者が多くトルコ人と混住していたが,彼らの主たる職業である軍人のほかに,井戸掘りや行商人などの下層民を構成していた。このほかにも建築や陶器づくり,毛皮の裁断などに携わるアラブ,熊使いや芸人のジプシーなどがいた。非イスラム教徒はスルタンの命によりイスラムとはちがった衣服,履物を身につけ髪形も変わっていたが,民族別の職業構成が明瞭に示しているように,さまざまな民族が首都の経済的・社会的機能を分担し,補完しあいながら共住していたのである。スルタンから許可のおりた復活祭ともなれば,3日間ビザンティン帝国期の伝統にしたがって,毛皮商人,屠殺業者の同職組合を先頭に,さまざまな同職組合の組合員が楽器を奏で踊りながら街路をねり歩くという光景もみられた。このキリスト教徒の行列を見物する群集の中には,ときには大宰相やスルタンの姿も見うけられたと年代記作者は伝えている。このような共生現象は程度の差こそあれ,バルカンの地方の諸都市にも見られ,当初はトルコ人の比率の高かった軍事都市においても17世紀以後はキリスト教徒住民の比率がしだいに高まっていく。農村ではこのような現象は限られていたであろうが,隣接するキリスト教徒とイスラムの村の住民が,病気の際などには,霊験あらたかな祈禱師を呼んだり,護符をもらうために隣村へ駆けつけるというような光景もしばしば見られた。
バルカン社会の共生現象を示す例としては,17世紀後半以降帝国外へ出稼ぎに出かけたバルカンの商人たちの商館がある。オスマン帝国の経済的規制を逃れて中欧や東欧へ移住した彼らは,ウィーン,オデッサをはじめ,ハンガリーやトランシルバニアに多くの商館を設立し,当時のバルカン貿易をほとんど独占していた。この商館はふつうギリシア商館と呼ばれていたが,そこではギリシア人だけでなく,セルビア人,ブルガリア人,ワラキア人などのギリシア正教徒が共同で働いていたのである。さらに15世紀から19世紀までバルカンの各地で活躍したハイドゥクの活動も共生現象の事例としてあげられる。16世紀末にバルカンの各地でトルコ軍を破ったババ・ノバクBaba Novacの下には,出身地のセルビアばかりでなく,ブルガリアやワラキアなどから8000人のハイドゥクが集まり,各地でフォークロアの英雄として語り伝えられた。このような民族をこえたハイドゥクの活動は,イスラム教徒のトルコ人との間にも見られ,クルジャリと呼ばれるトルコの匪賊にバルカンのキリスト教徒が加わることもあったし,アナトリア出身のハイドゥクがバルカンで活躍した例もある。このような地域的条件が,民族運動の初期に,エテリア蜂起,セルビア蜂起に見られるようなバルカン諸民族の共闘をも可能にしたのである。
17世紀から,とりわけ18世紀後半以降,オスマン帝国の内部崩壊が顕在化するころから,バルカン社会の後進性がバルカン諸民族にとって焦眉の問題となる。バルカン民族運動の先駆者たちも,あるいはギリシアのコライスやリガスのように,あるいはトランシルバニアのルーマニア人のあいだに生まれたトランシルバニア学派のように,自民族の置かれた状態の悲惨さ,後進性を強く感じ取り,その方策にちがいはあっても,等しく民衆の啓蒙活動の必要を説いたのである。バルカン社会の後進性は,もちろん地域差はあるけれども,一般化していえば,次の諸点にみられた。
(1)国制上・政治上の権利喪失状態 ただし民族運動の初期には,アルバニアのアリー・パシャのような地方支配者の専横に対する反対の声が強く,オスマン体制自体に対する反対が初めから起きたわけではなかった。(2)経済的貧困 17世紀以降オスマン帝国にもチフトリキと呼ばれる私的大土地所有制が現れ,農村に資本主義的関係が浸透するにしたがい,チフトリキ制の成立した地方では,西欧の囲込み運動のように土地を失った農民が多数出現する。さらにたび重なる戦乱と疫病により農村は疲弊し,人口も減少した。(3)〈太古的性格〉をもつ社会組織 オスマン帝国支配の時期には,支配層はイスラム教徒によって独占されていたため,オスマン支配以前の貴族層は,ギリシア,ワラキア,モルドバを除いて消滅し,そのためバルカン諸民族の社会は,自民族出身の支配者層をもたず,ほとんどが農民や羊飼いによって占められていた。かつ農民や羊飼いの共同体には部族的な太古的性格を持続するものが多かった。(4)文化的閉鎖性 広大な平野部をもたないバルカン半島の自然条件にも影響され,それぞれの村が独自の色彩と模様をもつ衣装や提げ袋を持つという郷土文化が生まれ,狭い地域主義がその特徴となった。しかも貴族あるいは文人の文化がすたれたために,文化の民衆化現象がおき,言葉のうえでも民衆語の役割が増大し,これが他方では文盲率の高さや迷信の流行ともつながりをもった。このようななかで,ほとんど唯一の学校としてはギリシア語学校があった。18世紀にはアテネ,イオアニナ,アルタのほかエーゲ海の諸島やイオニア諸島にあり,またファナリオット(新貴族)によってブカレストとヤシにギリシア・アカデミーが設立され,ギリシア人だけでなくルーマニア人,ブルガリア人,セルビア人も学んでいた。(5)宗教の腐敗 17世紀後半からギリシアにファナリオットが台頭するに伴い,俗人が東方正教会の機構に影響力をもち始め,ビザンティン以来バルカン社会の中で独自な社会的位置を占めてきた教会と聖職者はその活力を喪失し始め,農村でも無知な司祭が一般的となった。しかも教会内ではギリシア人の勢力が圧倒的に強かったから,19世紀にはセルビア人,ブルガリア人が独立教会の回復を主張し,それが民族運動の重大目標の中に数えられるにいたった。以上に述べたような後進性は,19世紀以降のバルカン社会が解決を迫られた課題であり,基本的には現代まで尾を引く問題であるといってよいだろう。
長い民族運動の結果,バルカンの主要民族が現在の領土に近いかたちで国家の独立を達成したのは,第1次大戦後のベルサイユ体制のもとにおいてであった。すなわち,ギリシア,ブルガリアはヌイイー条約(1919),ルーマニアはトリアノン条約(1920)によって国境が画定され,のちのユーゴスラビアのもとをなすセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立は1918年,アルバニアの独立の承認は20年であった。独立国家の達成が彼らに将来の発展の基礎を与えたことはいうまでもない。しかし独立達成の過程とそれのもつ意味は,たとえば西欧のそれとは大きく異なるのであり,列強の強い干渉(東方問題,バルカン問題)とバルカンに特殊な民族的状況とを考慮にいれなければならない。列強の側からの干渉は,ときには直接的な分割領有(イギリスのイオニア諸島,イタリアのドデカネス諸島領有,ロシアのベッサラビア併合など),ときには保護権の獲得(バルカンのキリスト教徒に対するロシアの保護権,マケドニアに対する国際監視の主張など),またときには協力関係の主導(ロシアのスラブ主義政策)とさまざまな形式で行われたが,列強間の対立はそれと結ぶバルカン諸国間の対立抗争を増幅した。またバルカンの錯綜した民族的状況は国家的独立と主体的な民族形成の乖離(かいり)をも生み出し,独立達成の過程でときには暴力的に民族問題を処理せざるをえなかった。
列強とバルカン諸政府の政策が地域住民の意向をじゅうりんしたマケドニアの例は,その意味できわめてバルカン的な特徴を示している。マケドニアはバルカンの中でも最も複雑な民族的状況に置かれた地方で,ギリシア人,アルバニア人,アルーマニア人,セルビア人,ブルガリア人,トルコ人の混住する地域であった。エスニックな点でも,言語,宗教の点でも状況を複雑にしているのは,さまざまな時期に行われた南スラブ人,アルーマニア人,アルバニア人の移住であった。マケドニア問題はブルガリアの独立運動と関連して,ブルガリア教会の独立がスルタンによって承認されたのに対し,東方正教の総主教がこれを否認した1870年代に始まる。ブルガリア教会はオフリトとスコピエの教区での住民投票で3分の2以上の支持を得て教区をマケドニアに拡大したが,これに対してはギリシアだけでなくセルビアも反対し,さらにアルーマニア人の保護を口実としてルーマニアも介入した。各国は自国語で授業する学校を競って新設し,とくにセルビアとブルガリアは言語学者や民族学者を派遣し調査させて自国に有利な学説を展開させ,また互いに矛盾しあう人口統計を作成公表させた。そもそもマケドニア地域とかマケドニア語,マケドニア人というような基本的概念をめぐって相いれない見解が提示され,ギリシア人は長年の東方正教会の支配を重視してマケドニアをみずからの歴史的地域と主張し,セルビア人は言語的親縁性と習俗の同一性を強調し,ブルガリア人は言語とエスニックな同一性を主張して譲らなかった。このような外部からの働きかけに反発して1893年イムロIMRO(内部マケドニア人革命組織)が結成され,オスマン帝国内でのマケドニアの政治的自治を要求した。この運動は1903年のイリンデン蜂起失敗後退廃の道をたどり,08年の青年トルコの武装蜂起以後,政治的自治の方針を捨て,しだいにテロ集団化しブルガリアの政策に追随するようになるのだが,そのおもな原因としてマケドニア人のアイデンティティの弱さが挙げられなければならない。マケドニアの住民は自分たちをマケドニア人と呼び,それを誇りにもしていたが,民族を形成するだけの意識的・社会的な諸条件を欠いていたのであろう。バルカン諸国家の場合,列強の利害対立に規制されながら国家建設がなされたために,民族としての諸条件が伴わない場合が多かった。
独立達成のために支払わされた貴重な代価としては,強制的あるいは半強制的な移住がある。バルカンの歴史をみると,戦争には移住がつきものであった。18世紀以後はオスマン帝国の領土縮小に伴ってトルコ人の退去が大量に行われたが,イリンデン蜂起で破壊されたマケドニアの200ヵ村の跡にはボスニア・ヘルツェゴビナから引き揚げてきたトルコ人が移植されている。バルカン戦争の際にも各国軍の占領地域での虐殺を恐れて多数の住民が他の地へ移住している。しかし民族国家形成のために行われた最も思いきった荒療治は住民交換であった。第1次大戦後に結ばれたヌイイー条約によってギリシア・ブルガリア間に住民交換が行われ,またギリシア・トルコ戦争の講和条約である1923年のローザンヌ条約によって両国間に強制的住民交換が行われ,ギリシア人130万人,トルコ人40万人,ブルガリア人25万人がそれぞれの〈本国〉へ移住したといわれるが,何世紀も居住した土地を去って母国に引き揚げた者たちを待ちうけていたのは多くの場合割り当てられた開拓地や都市スラム街での生活や経済的な貧しさであった。
独立後の経済的・社会的立遅れのために生じた現象としては,海外とくにアメリカへの移住がある。ギリシアをはじめバルカンの国々からは,独立後アメリカへの移民が増加するが,バルカン移民の特徴は独身の青年が多く,技能の習得もなく文盲率も高く,そのため帰国する率も高く,出稼ぎ的性格が強かった。これは技能習得者で永住的志向の強かった東欧のユダヤ人やチェコ人の移民とは対照的であった。19世紀後半から20世紀にかけてバルカンのユダヤ人の数はポーランド,ハンガリー,ロシアなどのそれには及ばなかったが,しかしルーマニアをはじめバルカン諸国にはユダヤ人がマイノリティとして存在していた。その数は第2次大戦前にはルーマニアに約100万,その他の国々に約17万と推定されているが,19世紀後半以降1世紀余のあいだにユダヤ人の数は激減していた。1850年から第1次大戦までの統計によれば,ルーマニアからのアメリカ移民のうち90%近くがユダヤ人だったといわれ,ルーマニアでのユダヤ人の生活条件の悪化を物語っている。さらに第2次大戦でのユダヤ人犠牲者の数は,バルカンではポーランドやハンガリーに比べて少ないとはいえ,ルーマニアで30万,旧ユーゴスラビアで2万6000,ブルガリアで1万4000を数えている。第2次大戦後は多くのユダヤ人がイスラエルへ移住した。ここでユダヤ人と並んでナチス民族政策の犠牲者となったジプシー(ロマ)についてみれば,ルーマニアで3万6000,セルビアで1万2000,ブルガリアで5000の犠牲者を出している。
このようにバルカン諸国における民族構成は外科手術的な手段によって大きく変化した。第2次大戦中ファシズムの支配下に置かれたバルカン諸国では,旧ユーゴスラビア,アルバニア,ギリシアのように民衆の側からの強い抵抗運動が見られた。戦後に生まれた社会主義政府はプロレタリアート国際主義のイデオロギーのもとにナショナリズム批判,少数民族の同権の政策を掲げたが,現実には同質的民族統合国家の性格を強めた。そのため,旧ユーゴスラビアのような連邦制国家をも含めて,1970年代ころからバルカンの各地で民族問題が再燃しはじめた(ユーゴスラビアのアルバニア人問題,トランシルバニアのハンガリー人問題,そしてマケドニア問題など)。89年以後の社会主義体制の崩壊は,民族問題を生起せしめるさまざまな矛盾の深刻さをあらためて提示している。さらに,社会主義体制の崩壊によって,東西両陣営の境界線上に位置したバルカンの地政学的性格も変化した。それは,和平協定が成立したとはいえ現在も継続しているボスニア・ヘルツェゴビナの問題が,国連あるいは全ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)の重要議題とされていることからも明らかだろう。刻々に変化する内外の状況の中で,国家と民族という基本テーマを含むバルカンの地域性があらたに問われている。
→オスマン帝国 →東欧 →ビザンティン帝国
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(柴宜弘 東京大学教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…ギリシア神話の火と鍛冶の神。ローマ神話のウルカヌスVulcanus(英語ではバルカンVulcan)にあたる。ホメロスによれば,ゼウスとその妃ヘラの子。…
…ブルガリア中部の同名州の州都。スターラ・プラニナ山脈の南麓にあり,ソフィアの東230km。人口15万(1996)。ルセ,ブルガス,プロブディフ,ソフィアを結ぶ鉄道の要衝で,空港もある。バラ栽培地帯の中心地で,古くからバラ油が生産されている。繊維,化学肥料,冶金,機械製作,電気,野菜缶詰,ビール,製材,家具の諸工場がある。古い起源をもち,ローマ皇帝トラヤヌスはこの町をアウグスタ・トラヤナAugusta Trajanaと名づけたが,古代末期には一時衰退した。…
…ブルガリアの中央を東西に走る山脈で,ブルガリア語で〈古い山脈〉の意。通称バルカン山脈。古称はアエモンAemon,ハエムスHaemus,ハエムHaem,エムスEmusなど多数。…
…またF.ノイマンは〈実力による全政治権力の掌握〉という独裁の政治的実態に即して,軍,警察,官僚,司法等の伝統的支配手段を少数者が集中的に掌握する〈単純独裁〉,個人の大衆に対するカリスマ的声望を背景として成立する〈カエサル的独裁〉,マス・メディアや経済統制を通じて市民の私生活にまで入りこむ〈全体主義的独裁〉を区分する。独裁の社会経済的基盤に注目したG.ハルガルテンは,〈一個人の力ずくの支配であって,支配者の称する天命に立脚し,法律と伝統を共に拒否し,社会危機ないし革命によって行動に駆り立てられた広範な大衆に支持されているもの〉と独裁を定義して,古今東西の独裁を比較検討することにより,(1)貨幣経済の最盛期に伝統君主や貴族の支配に対し新興支配層が勃興してくることから生じる〈古典独裁〉(古代ギリシアの僭主政,古代ローマのカエサル,イギリス革命のクロムウェル,フランスのナポレオン,20世紀ラテン・アメリカ諸国の独裁など),(2)大衆の蜂起を背景とし革命家の委員会が強圧的支配をおこなう〈超革命独裁〉(フランス革命のジャコバンとロベスピエール,ロシア革命におけるボリシェビキとレーニンなど),(3)古典独裁へ対抗して伝統的支配層が組織する〈反革命独裁〉(古代ローマのスラ,20世紀スペインのフランコなど),(4)超革命独裁の脅威のもとで伝統にひきずられた中産階級の大衆運動により組織される〈擬似革命独裁〉(イタリア・ファシズム,ドイツ・ナチズムなど)を類型化した。ここでは,社会構造変化にともなう旧来の支配体制の危機が,独裁成立の要件として着目されている。…
※「バルカン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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