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ビザンティン帝国 ビザンティンていこく

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百科事典マイペディアの解説

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世界大百科事典 第2版の解説

ビザンティンていこく【ビザンティン帝国】

古代ローマ帝国の中世における連続体(ただし首都はコンスタンティノープル。旧称ビュザンティウム)に対して,前者と区別する意味で後代につけられた名称。英語ではByzantine Empire。日本では東ローマ帝国呼ばれることもある。両者はとぎれなき連続体であり,また正式の国名そしてまたこの国家の自己了解は,あくまでもローマ帝国Politeia tōn Rhōmaiōn(ギリシア語),Res Publica Romana(ラテン語)であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ビザンティン帝国
びざんてぃんていこく
Byzantine Empire

コンスタンティノープル(現イスタンブール)を首都とした中世ローマ帝国の通称。東ローマ帝国Eastern Roman Empireともよばれる。
 ローマ帝国の東方領(後のビザンティン帝国の母体)は、西のローマを中心とする西方領が滅びた(476)あとも、ローマの政治体制、キリスト教、古代ギリシア文化の3本の柱を中心に1453年まで生き続けた。この世界史上きわめてまれな長期の帝国は、コンスタンティノープルの前身がギリシア植民市ビザンティオンであったところから、ビザンティン(またはビザンツ)帝国と通例よばれることが多い。ギリシア語を公用語とし、ギリシア正教(東方正教会)を国教とするこの帝国は、全中世を通じてギリシア正教圏の盟主として君臨した。ことに、のちに新たに誕生してくるスラブ系諸国にとっては、帝国の政治、宗教、社会、文化および経済はそのすべての面において模範とされ、コンスタンティノープルはまさに「東のローマ」であった。文化的には古典ギリシアの文芸をもっともよく保存・育成・発展させ、これを西欧諸国およびイスラム圏に伝えた。そしてまたイタリア人文主義にも大きな刺激を与えた。[和田 廣]

時代区分

ビザンティン帝国の歴史的出発点をどこに置くかは、議論の多いところである。現在では、全体を3期(初期・中期・後期)に分け、このうちの中期をさらに前期と後期とに分ける方法が多くとられている。すなわち、330年5月11日(コンスタンティノープルの開都)から610年(皇帝フォーカスの退位)を初期とし、610年(ヘラクレイオス1世の登位)から1204年(第4回十字軍による首都の陥落)を中期、中期のうちさらに、610年から1025年(バシレイオス2世の没年)までを前期、1025年(コンスタンティノス8世の登位)から1204年までを後期と分ける。1204年(ニカイア帝国の発足)から1453年5月29日(オスマン・トルコのメフメト2世による首都陥落)を3期のうちの後期とする。本項もこの時代区分に従うこととする。[和田 廣]

初期

テオドシウス1世の死(395)後、ローマ帝国は領土的には最終的に東方領と西方領とに分かれることになる。後のビザンティン帝国の母体となる東方領とは、ダキア、マケドニア、アシア、ポントゥス、オリエンス、トラキア、エジプト各地方をさす。そしてこれらの領土が、西方領とともにいわゆる「ディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度」により統治されていた。すなわち、首都を除く全領土は、民政・軍政のそれぞれに独立した二頭支配を受けていた。いま東方領のみに限ってこれをみれば、次のようになる。
 首都を除くすべての領土は、二つの州(オリエンス、イリリクム)に分かれ、オリエンス州は五つの管区(エジプト、オリエンス、ポントゥス、アシアナ、トラキア)、イリリクム州は二つの管区(ダキア、マケドニア)に分かれ、さらにそれぞれの管区は属領に分かれていて、その数は6世紀前半には64を数えたという。すなわち、行政的には、1人の皇帝の下に2人の州長官、7人の管区長、64人の属領長官により支配されていた。軍事的には、皇帝の下に5人の元帥がおり、2人は首都に、残りの3人がそれぞれの管轄区(オリエンス、トラキア、イリリクム)を受け持っていた。国境警備軍、首都駐屯部隊の二つが軍の主力をなし、騎馬兵中心の部隊編成で、5世紀初頭の記録によれば名目上50万に近い兵力の常備軍があったという。国政、信仰、文化、教育、経済のすべての中心である首都の規模は、テオドシウス2世の二重の城壁の完成(413)をもって定まった。首都は、西のローマと同じく特別行政区とされ、町の治安維持、食糧確保、市民の裁判権、商業活動の規制と保護など、市民生活に関するすべての行政上の処理は首都総督に任された。国政の中枢である宮廷では、宰相、大蔵大臣、宮廷財務長官、宮廷長官、侍従長などが皇帝を補佐した。元老院は、皇帝の公式の諮問機関として、政権の交替や皇帝位が空位の際、あるいは新皇帝の選出にあたって決定的な役割を果たすことが多かった。
 こうした統治体制に支えられた帝国は、対外的にはつねに二正面作戦を強いられた。すなわち、東のササン朝ペルシアとは前代から引き続いて戦闘状態にあり、これはユリアヌス帝の戦死(363)、ユスティニアヌス1世治下の一時的和平条約の締結(545)を経て、6世紀後半の小アジアへの侵入とこれに対するヘラクレイオス1世による最終的な勝利(627、ニネベの戦い)に至るまで断続的に続いた。また、バルカン半島では4世紀のゴート人の南下、続く国内へのゲルマン人の侵入、5世紀なかばのアッティラの来襲を受けるが、これらをいずれも「テオドシウスの城壁」によりしのぐことができた。そしてユスティニアヌス1世のとき、失われた旧ローマ帝国西方領を奪回するための大遠征軍が派遣された。その結果、534年北アフリカのバンダル王国を、554年に地中海の島々とともにスペインの西ゴート王国の一部を、そして555年にイタリアの東ゴート王国を、それぞれふたたび帝国領とすることができた。
 しかし、それらの地域も、6世紀後半にはふたたび異民族の侵略するところとなったため、マウリキオス帝(在位582~602)は、イタリアのラベンナ(584)と北アフリカのカルタゴ(591)に皇帝代理として総督を置き、帝国領土の確保に努めさせた。だが、6世紀後半の対外的危機は、北方のドナウ戦線から始まった。すなわち、対西方、対東方政策に追われた帝国は、ドナウ川を渡下し、南下してきたスラブ・アバール人を押し戻すことができず、マウリキオスのときバルカンの主要都市シルミウム、シンギドゥヌムが相次いで陥落した。ついにバルカン半島のスラブ化が始まり、帝国の行政網は寸断され、統治機能はここで大きく後退し、7世紀の変革の一大要因となった。[和田 廣]

中期前半

この時代の属領統治方式および中央集権体制内での最大の変化は、対外情勢の変化に促された軍事色の強化と文官勢力の後退である。前者においては、帝国領土の二頭支配からテマ制度(軍管区制)への転換がそれであり、後者においては前述のディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度から、軍事・税務を重視するロゴテシア制度への転換がそれである。いずれもローマ的行政制度からの変身である。テマ制度は、ヘラクレイオス1世の治下(610~641)に始まる国力の全体的低下を補うための非常手段として、地方領地の自給自足を目的として出発したものであった。しかし、この制度は、整備されるにしたがい、帝国にとっては軍事的・経済的長所がきわめて大きかったために、ついにはこれがマケドニア朝下の繁栄の基礎となった。
 帝国の盛運はまさにテマ制度の消長に係っていたともいえた。すなわち、地方豪族および中央の高級官吏・軍人層、それに教会・修道院からなる大土地所有者層が、中小自由農民層を吸収して台頭し、テマ制度を内部から侵食し、さらにたび重なる対外危機による内政の混乱がテマ制度の機能を脅かすとき(中世後期)、帝国の盛運も揺らぐのである。大土地所有者層の増大は、すでに8世紀のころから顕著となった。9世紀初頭ニケフォロス1世(在位802~811)は、経済改革を断行して、大土地所有者層の財力を強制的に国家に還元させようと努めた。10世紀のロマノス1世(在位919~944)をはじめとする諸皇帝は、中小自由農民の農地の転売、寄進、遺贈を禁止することにより、大土地所有者層の増大を防ごうとした。納税の連帯制の強化(富者が貧者のかわりに納税)、大土地所有者の先買権の禁止などの保護策により、中小自由農民層の確保が求められた。しかし、こうした保護策は、国税による収入の確保のための政策であり、中小自由農民の真の社会的・経済的保護を目的としたものではなかったため、実効は薄かった。そして、11世紀初め、大土地所有者層出身のロマノス3世(在位1028~34)が、従来の保護策を廃止して、逆に大土地所有者層の支持を得るための優遇策に転換するに及んで、中小自由農民層の没落は時代とともに加速度的に進行する。ここに11世紀の変革の一大要因がある。
 7世紀から9世紀にかけて、外敵の侵入(ペルシア、イスラム、スラブ、ブルガリア)が連続的に行われ、たびたび首都をも脅かした。そのため、中央政府部内においては、軍事・税務関係を扱う部局の重要性が増し、それらの部局長が政治の中枢を占め、ディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度下の宮廷の諸大臣・諸長官と入れ替わることになる。すなわちロゴテシア制の登場である。「ロゴテシア」は元来会計係を意味する。この制度の中心は主計局長で、彼は税務部長と軍政部長をその管轄下に置き、外務大臣と内務大臣の職を兼務する駅逓(えきてい)局長とともに強大な権力を握った。だが官僚機構の整備とともに、皇帝はいわば無任所大臣のような形で自分の信任する人物をこの官僚機構の要所に据え、これを動かそうとした。
 こうした行政機構の改変は、対外的要因により引き起こされたものであるが、その第一は、7世紀前半に始まり9世紀後半まで続くイスラムとの争いである。ヘラクレイオス1世のペルシア遠征が成功して9年後、早くもシリアに侵入したイスラム軍は、ヤルムークの戦い(636)でビザンティン帝国の軍を大破した。以後シリア、メソポタミア、エジプトといった重要な領土はまたたくまに帝国領外に去り、小アジアはもちろん首都さえも二度にわたり(678、717~718)、イスラム軍に包囲されるありさまであった。そして帝国がイスラム軍に対して攻勢に出られるのは9世紀後半からである。
 第二の要因は、ブルガリア人の登場である。7世紀なかばにバルカン北部に出現した彼らは、陸続と南下を続け、コンスタンティノス4世の遠征軍を大破した(679)。アスパルーフ王のとき、バルカン半島中部にビザンティン領内における初の独立国家である第一次ブルガリア王国(681~971)を樹立した。とくに9世紀初頭のクルム王、9世紀後半から10世紀前半にかけてのシメオン王の2人は、帝国を大いに苦境に陥れた。
 これに対し、時期的には早く南下・定住を始めていた第三の要因であるスラブ人は、独立国家を形成することなく、先住民であるギリシア系住民との融合の道を歩んだ。ギリシア人のスラブ化がそれであった。しかし、これも9世紀初頭には、スラブ人に占領された地域の奪回が南ギリシアから開始されるにしたがって、いわばスラブのギリシア化が始まるのである。その象徴的事件が、スラブの使徒キリロス(別名コンスタンティノス、キリル)とメトディオスの兄弟によるスラブ文字(キリル文字)の作成であり、これをもとにしたスラブ人への伝道である。ここにスラブ人のビザンティン文化摂取の道が開かれた。また9世紀なかばには、のちにキエフ公国を樹立するロース人が初めて首都周辺に出没する。のちにオレーグ王のとき、帝国との通商条約を締結(911)、さらに女帝オルガの受洗(957)、ウラジーミル1世のときキリスト教の国教宣言(988)が行われるに及んで、キエフ公国もギリシア正教圏の有力な一員となった。
 かくして対外危機を乗り越え、行政・軍事機構の整備と中小自由農民の繁栄を背景とし、帝国はバシレイオス2世(在位976~1025)のとき、アルメニア、シリアの沿岸地帯、ドナウ川以南のバルカン半島をふたたび帝国領とし、ユスティニアヌス帝以後の最大の領土を得た。マケドニア朝下の繁栄がそれである。[和田 廣]

中期後半

11世紀を境にしたビザンティン帝国の緩慢な衰退現象は、1204年4月13日の第4回十字軍の騎士とベニス総督エンリコ・ダンドロによる首都占領に象徴される。その原因は、国内の封建化の進行と、セルジューク・トルコ、十字軍(第1~4回)、第二次ブルガリア王国、セルビア王国などのもたらした外圧にあるといえる。
 国内封建化の現象は、11世紀初頭のコンスタンティノス9世(在位1042~55)下のプロノイア制(土地媒体による皇帝と臣下の主従関係)の成立、その後の発展・普及に現れている。当時、免税特権を賦与された大土地所有者層の領地、徴税請負人に賃貸に出された土地、それにプロノイアとして支給された土地の3種類は、徴税上は治外法権的な存在であった。こうした所領の増加は、他方では中小自由農民への納税の負担増を意味した。これが、次には前者の増大と後者の没落という悪循環を生んだ。こうした事態は、国庫の貧困化をもたらしたが、その象徴はビザンティン金貨の金含有量の下落であった。コンスタンティノス9世治下では90~80%であったものが、30年後のニケフォロス3世の下では30%に下落するのである。こうした社会経済上の変革は、行政・軍事にも影響しないわけにはいかなかった。
 テマ制度は、小アジアとバルカン半島の主要部分が11世紀なかば過ぎに帝国領外となったこと、および国内の封建化のため徐々に消滅した。残る領土の大半は、封建化の波にのまれ、大土地所有者層の手に移ってしまうのである。いまや皇帝自身も大土地所有者層の出身である者がほとんどであった。したがって、その支配体制には、前代までの中央集権制はかろうじて維持されながらも、一方ではおもに土地を媒体にした皇帝と臣下群の封建的支配関係が多く混入することになった。アレクシオス1世(在位1081~1118)治下におけるような一時的興隆期はあったものの、皇帝権力そのものの低下は否定できず、それと相対的に大土地所有者層の発言力が増した。中央、地方を問わず、内乱や反乱、勢力拡張のための陰謀や勢力争いが頻発した。11世紀後半の縮小された帝国領では、2人の軍司令官が全領土を東西の二つの軍区に分け、自国軍にかわる外国人傭兵(ようへい)部隊を指揮して国防にあたった。
 このような不安定な内政に拍車をかけたのが、対外危機であった。11世紀後半のノルマン人の進出は、帝国の南イタリア支配に終止符を打ち(1071)、ノルマン王ロベルト・グイスカルドはその死に至るまで帝国を苦しめた。同年、ロマノス4世(在位1068~71)はセルジューク・トルコ軍をマンチケルトで迎え撃ったが敗れ、小アジアの中央にルム王国の樹立を許してしまう(1080)。こうした東西の外圧に対抗するため、アレクシオス1世はイタリア商業都市、とくにベネチアに軍事援助を依頼。その代償に帝国領土内での貿易・免税特権を与えた。だが以後帝国の商業・経済活動はイタリア、なかでもベネチアの商人の進出により大打撃を受けることになる。さらに混乱をもたらしたのは、ペチェネグ、マジャール、クマノイ、ウズといった異民族の南下と来襲であり、ネマニッチ(ネマーニャ)王の下でのセルビア王国の興隆と第二次ブルガリア王国(1186~1393)の樹立であった。こうした外圧の頂点が第4回十字軍(1202~04)であった。
 すでに第1回十字軍(1096~99)の通過の際に、西欧とビザンティン帝国の人々の間に生じた誤解は、時とともに双方の反感と嫌悪と敵意に変じ、第4回十字軍ではその頂点に達した。もちろん東方の富に目がくらんだのも事実であった。そして東地中海貿易の独占を企てたベネチア総督ダンドロは、これを機に一気に首都占領に踏み切るべく、十字軍と歩調をあわせた。かくして1204年4月13日に首都は陥落し、旧帝国領内にボードワン1世を皇帝とするラテン帝国(1204~61)が誕生した。[和田 廣]

後期

首都を逃れた旧ビザンティン帝国の勢力の一つはニカイアに(1204~61)、他の一つはエピルスに(1204~1335)それぞれ亡命政権を樹立した。また別の一派は、首都陥落直前に黒海沿岸のトラペツントに独立した王国を建てたが(1204~1461)、これはビザンティン帝国の政治的命運とはまったく無関係な存在であった。この亡命政権のなかでは、ニカイア帝国の復興が目覚ましかった。わずか半世紀の間に周辺の外敵をあるいは破り、あるいはこれと和し、ついにミハイル8世によるペラゴニアの戦い(1259)の勝利によって、その地位を不動のものとした。そして1261年8月15日、同帝は旧首都をラテン帝国から奪回し、パレオロゴス朝を開くのである。
 しかし、復興された帝国は、内政・外政ともに難問が山積していた。対外的には、13世紀後半に首都奪回をねらう反ビザンティン勢力に苦しめられた。シチリアのアンジュー家の策動により、旧ラテン帝国のボードワン2世以下が結集し、首都攻略に出たが、ミハイル8世は逆に「シチリアの晩鐘」事件(1282)により、ようやく危機を切り抜けた。だが国内の封建化による悪弊は強く、行政の乱れ、経済活動の不振、外国人傭兵の増加は、一方では一般市民および農民層を重税をもって圧迫した。他方では、内政上の悪循環は外政上の無策と失敗につながった。そのもっとも大きなものは、14世紀の対オスマン・トルコ政策であった。
 小アジアのブルサに首都を置き(1326)、機会をねらうオスマン・トルコ軍はすばやくニコメディア、ニカイアの両都市を占領した。この対外危機に臨んでも、国内では皇帝位継承問題でいわゆるカンタクツェノスの乱(1341~47)により効果ある防衛策を打ち出せなかった。そして1365年、オスマン・トルコのムラト1世はその首都をアドリアノープルに移した。ここにビザンティン帝国は、海上ではイタリア商業都市のベネチアとジェノバに、陸ではオスマン・トルコに囲まれた東地中海における一小国となった。チェルモナの戦い(1370)でオスマン・トルコ軍に大敗したセルビア王国同様、ビザンティン皇帝もこのときからスルタンに対し進貢義務を負うことになった。これをもってビザンティン帝国の政治的独立は失われたのである。続くコソボの戦い(1389)でセルビアが敗れ、ニコポリスの戦い(1396)でハンガリーが敗れると、バルカン半島ではオスマン・トルコ軍に対抗する勢力はなくなった。まさにビザンティン帝国は、オスマン・トルコという大海に浮かぶ孤島のごとき存在となってしまった。東西両教会の再統一を条件に、ローマ教皇を通じてラテン世界から軍事援助を引き出そうとする試みが再三再四行われたが、いずれも失敗に終わった。
 モンゴルのティームール・ハンが小アジアに侵入し、オスマン・トルコのスルタン・バヤジトをアンゴラの戦い(1402)で破り、帝国は一時小康を得た。だがムラト2世以来、首都攻略は日増しに激しくなり、ハンガリー王ウワディスワフ3世の組織したキリスト教徒軍がバルナで大敗を喫した(1444)あとには、ビザンティン帝国に対する救援の望みはまったく絶たれた。そして1453年春、スルタン・メフメト2世は、籠城(ろうじょう)軍の10倍の兵力をもって海陸から1か月もの間首都を包囲した。そして5月29日の総攻撃をもって、ついにこれを陥落させた。ここにビザンティン帝国の政治的生命が終息した。
 首都の陥落に続いて、アテネ、モレア、トラペツントという都市が次々にオスマン・トルコ軍の手に落ちた。しかしギリシア正教会だけはオスマン・トルコの宗教的宥和(ゆうわ)策によりその存続を許された。そして聖画、教会音楽と教会建築に代表される宗教芸術は、ギリシア正教会とともに今日までビザンティン文化の継承者として存続している。また、アトスの修道院群は今日もなおギリシア正教の聖地として栄えている。
 中世において先進国であったビザンティン帝国の政治・法律・文化を受容し、ギリシア正教を国教としたスラブ諸国、なかんずくブルガリア、セルビア、ルーマニア、キエフ・ロシア(後のモスクワ大公国)には、帝国滅亡後も多方面においてその影響が生き続けた。なかでもモスクワ大公国のイワン3世は、ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世(在位1449~53)の姪(めい)ソフィアと結婚(1472)した。彼は、ビザンティン皇帝の即位式に準じて戴冠(たいかん)式を挙行、自らビザンティン帝国の継承者をもって任じ、モスクワを「第二のローマ」(コンスタンティノープル)に次ぐ「第三のローマ」と宣言したのである。[和田 廣]
『渡辺金一著『ビザンツ社会経済史研究』(1966・岩波書店) ▽米田治泰著『ビザンツ帝国』(1977・角川書店) ▽鳥山成人著『ビザンツと東欧世界』(『世界の歴史19』1978・講談社) ▽渡辺金一著『中世ローマ帝国』(岩波新書) ▽和田廣著『ビザンツ帝国』(教育社歴史新書) ▽井上浩一著『世界歴史叢書 ビザンツ帝国』(1982・岩波書店) ▽杉村貞臣著『ヘラクレイオス王朝時代の研究』(1981・山川出版社)』

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世界大百科事典内のビザンティン帝国の言及

【ギリシア】より

…ローマ帝政期には中流市民の没落に伴って,ローマの保護のもとで有産市民が市参事官となって地方自治の実権を握り,帝政後期以降には小作制による大土地所有制が発達していったものと推定される。ヘレニズム【太田 秀通】
【ビザンティン帝国,オスマン帝国時代】

[ビザンティン帝国下のギリシア]
 前2世紀以降,すでにギリシアの地はローマ帝国に編入され,属州アカイア,マケドニアが設けられていたが,330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルが帝国の東の首都と定められ,さらに395年にローマ帝国が東西に分裂すると,コンスタンティノープルを首都としギリシア,バルカンを中心とする東のローマ帝国は,西のローマ帝国とは別の歩みを始めることとなった。東の帝国は一般にビザンティン帝国とよばれるが,その歴史は,ローマ帝国理念,ギリシア文化,キリスト教の三つの要素を独自の形で結合させて発展していった。…

【皇帝】より

…ここから,たとえば,現代フランス語のempereur,ウェールズ語のymerawdwrが由来する。imperatorは中世では,ビザンティン帝国で皇帝を指すbasileus(後述)と等置された。カール大帝が800年のクリスマスにローマで帯びたimperator称号については,今日なお歴史家のあいだで解釈が定まらないものの,その結果,imperatorカール大帝と,basileus称号を帯びるビザンティン皇帝との間には,皇帝称号をめぐって,いわゆる中世における二皇帝問題が発生した(後述)。…

【ヨーロッパ】より

…ところが4世紀の末,帝国が東西に分治され,東帝国へは主としてスラブ系諸族,西帝国へはもっぱらゲルマン系諸族が,大挙侵入・定住することとなる。東ではいわゆるビザンティン帝国として,ローマの諸制度や国家形態がほとんどそのまま存続したのに反し,西では教会を介してカトリック的統一が維持されたものの,国家の形態は一変してゲルマン的な人的結合に重点を置く部族国家の分立状態となり,カール大帝による帝冠の復活も,いわばビザンティンとの関係でローマ教皇側から働きかけた理念的な形式の表れにすぎなかった。政治の現実はやがて封建国家の割拠に突入し,それ以来西ヨーロッパでは今に至るまで2度と世界帝国が実現しなかったわけで,近世における国民国家の根源は,すでにこの頃に定礎されていたのである。…

【ローマ】より

… 以下においては,ローマの歴史をいわゆる西ローマ帝国の滅亡の時点まで概観するとともに,国家および社会・文化の諸相を個別的主題の下に眺めることとする。西ローマ帝国滅亡後の歴史については〈ビザンティン帝国〉の項目を,神話,文学,美術,演劇などについてはそれぞれ,〈ローマ神話〉〈ラテン文学〉〈ローマ美術〉〈ローマ演劇〉などの諸項目を参照されたい。
〔歴史〕

【先史時代と王政期】
 ローマが姿を現すはるか以前から,イタリア半島にはテラマーレ,アペニノと呼ばれる青銅器文化(テラマーレ文化)があり,これらを吸収してやがてビラノーバと呼ばれる鉄器文化(ビラノーバ文化)が生まれた。…

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