穂積清軒(読み)ほづみ・せいけん

朝日日本歴史人物事典 「穂積清軒」の解説

穂積清軒

没年:明治7.8.29(1874)
生年天保7(1836)
幕末維新期の三河国吉田藩(豊橋市)藩士,洋学者旧名は清七郎,諱は英哲。藩江戸詰御用人喜左衛門の長男。浦賀奉行所与力だった母の弟中島三郎助の助言蘭学に向かい,坪井信道,川本幸民,大村益次郎らに25歳まで4年間学ぶ。海軍操練所翻訳方勤務。江戸赤坂で塾を開く。慶応2(1866)年藩邸帰住,藩士に蘭学を教授する。維新時には藩主と西下,藩論を佐幕にまとめるが,幕府軍が敗れて東帰。藩士数十人の彰義隊参加を問われて国元蟄居。このとき,清軒と改名。廃藩後吉田城内に英学塾好問社を開き,女子教育も行う。墓は豊橋市称名院。<参考文献>穂積寅九郎「穂積清軒略伝」(『在村の蘭学』)

(田崎哲郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「穂積清軒」の解説

穂積清軒 ほづみ-せいけん

1836-1874 幕末-明治時代の洋学者。
天保(てんぽう)7年1月生まれ。三河(愛知県)吉田藩士。坪井信道(しんどう)らに蘭学をまなぶ。文久2年幕府の軍艦操練所の翻訳方となり,のち江戸赤坂に家塾をひらく。慶応4年彰義隊との関係をとわれて蟄居(ちっきょ)。廃藩後吉田城内に英学塾好問社をひらいた。明治7年8月29日死去。39歳。名は英哲。通称は清七郎。

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