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ムソルグスキー Musorgskii, Modest Petrovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ムソルグスキー
Musorgskii, Modest Petrovich

[生]1839.3.21. カレボ
[没]1881.3.28. ペテルブルグ
ロシアの作曲家。地主の子として生まれ,軍人を志して陸軍士官候補生となったが,1858年に退役。ミリ・バラキレフに師事し,ロシア国民楽派の「五人組」を結成。農奴解放による経済的打撃で 1863年より官吏となり,1865年の母の死後は,ひどい飲酒癖から健康を害しながらも作曲を続け,ピアノ曲,交響曲,オペラ,歌曲などを作曲。ロシア固有の旋法や大胆な和声,変則的なリズムを豊富に使った独自なスタイルは,印象派のドビュッシーをはじめ,近代音楽の作風に大きな影響を与えた。主作品はオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』 (1874,ペテルブルグ初演) ,ピアノ組曲『展覧会の絵』 (1874) のほか,交響詩はげ山の一夜』 (1867) ,歌曲集『子供部屋』 (1868) など。

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デジタル大辞泉の解説

ムソルグスキー(Modest Petrovich Musorgskiy)

[1839~1881]ロシアの作曲家。国民楽派五人組の一人。ロシア国民音楽の創造に尽力。作品に、オペラ「ボリス=ゴドノフ」、ピアノ組曲「展覧会の絵」など。

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百科事典マイペディアの解説

ムソルグスキー

ロシアの作曲家。ロシア西部の村で地主の子に生まれ,母にピアノを学ぶ。作曲はまったくの独習のまま,少年時代から習作を書いた。ペテルブルグの近衛士官学校を卒業後軍隊に入る。
→関連項目アバドボリス・ゴドゥノフマリインスキー劇場レーピン

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)の解説

ムソルグスキー

ロシアの作曲家。バラキレフキュイ、リムスキー=コルサコフ、ボロディンと共にロシア国民楽派の「五人組」に名を連ねている。ピアノ作品では、《展覧会の絵》がよく知られている。
古い貴族の家系に生まれ、 ...続き

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世界大百科事典 第2版の解説

ムソルグスキー【Modest Petrovich Musorgskii】

1839‐81
ロシア国民楽派の作曲家。ロシア西部の村で地主の末子に生まれた。幼年時代はいなかで過ごしたが,母にピアノを習い上達した。1849年ペテルブルグの中学校に入るとともに,当時一流のピアニスト,アントン・ゲルケに師事した。52年に近衛士官学校に入り,56年卒業と同時にプレオブラジェンスキー近衛連隊に配属になった。ピアノのレッスンは54年にやめたが,目だった進歩を示した。音楽理論はまったく習わなかったが,作曲をしばしば試みた。

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大辞林 第三版の解説

ムソルグスキー【Modest Petrovich Musorgskii】

1839~1881) ロシアの作曲家。国民音楽の興隆に尽くしたロシア五人組の一人。ロシア人としての自覚に基づく独自の作風を樹立し、のちの印象派に影響を与えた。交響詩「はげ山の一夜」、オペラ「ボリス=ゴドノフ」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ムソルグスキー
むそるぐすきー
Модест Петрович Мусоргский Modest Petrovich Musorgskiy
(1839―1881)

ロシアの作曲家。バラキレフ、キュイ、リムスキー・コルサコフ、ボロディンとともにロシア国民楽派の「五人組」の一人に数えられる。プスコフ地方に広大な領地を所有する貴族の家に3月21日に生まれる。6歳から母にピアノの手ほどきを受け、早くも9歳でフィールドの協奏曲を聴衆の前で演奏した。1849~54年A・ゲルケにピアノを師事する一方、52年ペテルブルグの陸軍士官学校に進学。このころから独学で作曲を始めるが、士官学校の合唱団に加わり、指揮者で神学の教官であったクルプスキーからロシアの教会音楽について啓発された。56年に士官学校を卒業し、近衛(このえ)連隊の士官になる。このころ作曲家ボロディンと出会い、また翌年にはダルゴムイシスキーとキュイの知遇を得た。さらに彼らを通してバラキレフの指導を受けるようになり、58年音楽に専念するために軍務から退く。60年には、ピアノのためのスケルツォ変ロ長調の管弦楽用編曲が、新たに設立されたロシア音楽協会の演奏会で取り上げられた。しかし61年の農奴解放の実施により彼の家も大きな打撃を受け、経済的安定を得るために63年から官吏となる。この間チェルヌィシェフスキーらの進歩思想に共鳴して農民に同情的な行動をとったことは、「芸術はそれ自身が目的ではなく、人々と語り合うための手段である」という彼の芸術信条にも反映している。
 この芸術信条を確立した1864年以降はネクラーソフの詩による『カリストラートゥシュカ』(1864)をはじめリアリズムに立脚した一連の歌曲を発表、またダルゴムイシスキーの開拓した新しい朗唱様式を用いてゴーゴリの喜劇に基づくオペラ『結婚』(1868。未完)の第1幕を書き上げた。「五人組」の他の作曲家たちはこのオペラに賛同しなかったが、グループの理論的指導者である評論家のスターソフだけは強い関心を示し、彼の支持と助言でオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』が成立した。プーシキンの戯曲をもとにしたこの作品は69年に完成、マリンスキー劇場に提出されたが上演を拒否され、71~72年に改訂版が書き上げられた。そしてさまざまな障害を越えて74年に全曲上演され、大成功を収めた。続いてやはりスターソフの助言で別の歴史オペラ『ホバンシチーナ』やゴーゴリの短編に基づく『ソロチンスクの市』に手を染めたが、2曲とも生前には完成されなかった。このほか、74年には友人の画家V・ハルトマンの遺作展覧会の印象を描いたピアノ組曲『展覧会の絵』や歌曲集『日の光もなく』が作曲され、75~77年には歌曲集『死の歌と踊り』が書かれるなど、創作力の最後の高まりがみられる。しかしこのころから、仲間のキュイやリムスキー・コルサコフとは別の方向をとるようになり、79年には歌手レオノーワのピアノ伴奏者としてロシア国内を演奏旅行したが、翌年にはアルコール中毒による精神錯乱をおこし、廃人のようになって81年3月28日ペテルブルグに没した。
 ムソルグスキーのもっとも優れた業績は、前記の芸術信条に暗示されているように、ことばと結合したオペラと独唱歌曲の領域にみられる。そして形式面での美しさや技法的洗練を軽蔑(けいべつ)し、全音音階や大胆な和声を用いたが、それらはフランスのドビュッシーの印象主義の音楽に少なからぬ影響を与えることになった。また、人々の会話を音楽で再現する方法を探求し、叙情的ではあるがことばの抑揚に忠実な朗唱様式を確立した。[寺本まり子]

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世界大百科事典内のムソルグスキーの言及

【展覧会の絵】より

…ロシア国民楽派の作曲家ムソルグスキーが1874年に作曲した10曲からなるピアノ組曲。作曲の前年に没した友人の画家ハルトマンの追悼展覧会での印象をもとにつくられた。…

【ボリス・ゴドゥノフ】より

ムソルグスキーのオペラ。プロローグと4幕より成る。…

【ロシア語】より


[系統と分布]
 ロシア語はインド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に属し,ウクライナ語およびベラルーシ語とともにその東方群(東スラブ諸語)を形成する。 ロシア語は旧ソビエト連邦の全域で公用語として,また,高等教育および学術研究の用語としてひろく用いられてきた。1979年の国勢調査によれば,ロシア語を母語とする者は1億5350万人,第二言語とする者は6130万人で,その合計2億1480万人は旧ソ連の総人口の約82%にあたる。…

※「ムソルグスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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